ツルゲーネフの「初恋」を貰ったら、なんと返せばいいのだろうか?
私は、高校で馴染となった男の子から本を手渡された。
それは、ツルゲーネフの「初恋」という文庫本だった。
男の子:大学受験のね、読まないとじゃない。適当に純文学をいくつかさ。現文の問題でこれは何かとか、ええと、誰の作でどんな内容なのかって、あった時の為にね。
私 :あ、そうだね。それで、これはどうしたのかな。
男の子は照れたように下を向き、俺の気持ち、と言った。
私 :え?
男の子:返事はいつでもいい。その本で俺の気持ちが解って受け入れてくれるならそれを返してくれてもいいし、他の本で君の気持ちを教えてくれても嬉しいかな。それで、ええと、その本は俺の気持ちとしてまず貰ってくれるかな。ああ、やっぱり返さないでいいや。ずっと持っていて!俺の気持ちだから!
彼は走って去っていった。
私はその薄い文庫本を胸に抱きしめて教室に戻った。
驚いた事に、誰も残っていないと思った夕焼けで赤く染まった教室には、私の本当の意味での幼馴染が私を待っていた。
男の子の中では小柄な部類に入るが、笑うと印象的な大きな二重の目元がたれ目の甘い顔立ちになるので、実は女子には人気者という自慢の幼馴染だ。
アイドルだって一七〇あるかないかなのだから、彼はこれでいいのだ。
さて、そんな彼とは小中高と一緒で、彼は私の家の隣の家に住む男でしかないのだが、父子家庭なので幼い頃は我が家に飯を食いに来て、今では私が時々夕食を作りに行っていたりもする、という仲だ。
時々なのは、やつの方が料理が上手いからである。
男子高校生の得意絶品料理が、イカとタケノコの甘辛煮とはどういうことだ。
サバの味噌煮も私の母以上の美味さでもある。
よって、私がやつの家に飯を作りに行くのは、部活動で遅くなるからパパにご飯を作ってあげられないからさぁ、とやつに頼まれた時だけだ。
私が作るのは毎回オムライスで、それもどうかと思うが、やつも奴の父親も愛に飢えているからと「オムライスにハートを書いて。」と騒ぐのだから良いのかな?
やつ :どうした?
私は貰ったばかりの本をやつに見せ、どうしたらいいのかとやつに訊ねた。
やつは私が居心地悪くなるぐらいに、数秒ほど私を眇め見た。
やつ :お前って最低。そんなの自分で考えろよ。
私 :考えられないから聞いているんじゃない。私、彼に好かれるとは思っていなかったし、ちょっと重いからごめんなさいなのよ。
やつ :素直にそう言ってやれば良いじゃないか。
私 :ごめんなさいしたらお友達でってことで、そんで、二日後の今日はこの本を貰ってしまいました!なの。言葉で解って貰えないならば、私も本で気持ちを返そうと思いますので協力してくれませんか?
やつ :本で返すのか?
やつはうーんと考え込んだ。
やつ :家畜人やぷー。
私 :それはお前の愛読書かよ?それ渡したら私がやばくないか?
やつ :いや、改造されるのは男の方だ。じゃあ、チャタレイ夫人の恋人。わいせつ性と芸術性は別次元に属する概念として云たら、みたいな。
やつはそういえば法学部を目指していた。
私 :――わいせつ性は私か?
やつ :お前の愛読書の薄い本には俺は引いたからな。
私 :人の部屋で人の漫画を勝手に読んでそれかよ。
やつ :じゃあ、砂の女。
私 :監禁から離れろ。お前は真っ当な本を読め。
やつ :それから。
私 :三千代があざといからヤダ。っていうか、一応はハッピーエンドだよね。身内や友人全部不幸に落として自分も優雅な書生生活を失ってのハッピーエンド。でもさあ、よくもまあ、あんなあからさまな女で失敗するよな。花瓶の水飲んじゃった、私ったら純粋で子供みたーい。あざといだろ。主人公が騙されるのは、ぼっちゃんで坊ちゃんだったからか?
やつ :……。
私 :何よ、その目は。
やつ :いや。お前はもう少しあざとい系も勉強したらって気がしただけ。じゃあ、カフカの変身。
私 :最後にリンチかけて殺すぞって脅し?
やつ :いや、お前を好いてしまった男が不条理で可哀想って言いたいだけ。俺は純粋な彼とお友達になりたくなってきたよ。お前はサイテー。
私 :わかった。
やつ :本当に解ったのか?お前はさ、その本を読んでやれよ。そうしたらあいつの本当の気持ちを理解できるだろうよ。
私はわかったというしかなかった。
私こそ鞭で打たれても平気な女。
やつには彼女が出来たって聞いた。
彼女が出来たのならば、私がやつの家にご飯を作りに行くことは今後は無くなるのだろうし、やつと私の部屋で試験勉強をする事も無くなるのだろう。
私達は近すぎて、兄と妹か、姉と弟みたいだって思われているだけだもの。
私こそ「初恋」の「私」なのだ。
私は奴に追い払われても好きだったりするのにな。
―――――
やつ :お前、たまにはまともな本を読めよ。
私 :うるさいな。
やつ :まともに本を読まないからさ、他に好きな男がいるお前をさ、ずっと好きでいるから、なんて、健気な奴の気持ちが解らないままだったんだよ。
私 :――あんたは、あの時の私があんたのことを好きなのを知っていたんだ。
やつ :今も好きだろ?俺だって今でも好きなんだもん。ずっと好きなのに気が付かないなんてさ、お前が鈍感なだけだよ。
私は数十年夫でいてくれるやつの肩に頭を乗せた。
やつも私も白髪になりかけだ。
私はあの過去の男の子の気持ちを踏みにじった事を思い出すたびに苦い気持ちになるが、私という人間をあそこまで想ってくれたと感謝ばかりだ。
誰かに恋をされる事で私は自分を少し良いものと見直して、大好きだった人に一歩踏み出す勇気が手に入ったのかもしれないのだ。
私はあの日やつに言ったのだ。
私がこの本を手渡したいのは、あなたこそ、なのだ、と。
―――――
私 :あなたに彼女が出来たって聞いた。でも、私もあなたが好きだ。だから、この本の主人公と同じ気持ちなのは私のほうこそなんだ。
やつは私の告白を聞いてどうしたか。
大きく溜息を吐いて、俺こそ勘違いしていた、と呟いたのだ。
勘違い?
それから、彼は私が大好きな笑顔で私を見つめ返した。
やつ :俺さ、お前と公認の仲だとずっと思っていたんだよ。バカだろ?俺はお前のせいで毎日家畜人ヤプーな気持ちだよ。
私こそどう返してよいのか本気で判らない返答をしてくれたが、その後も付き合って結婚もしちゃったのだからハッピーエンドでしかないのだろう。
7/12 昭和にニートって言葉はありませんでした。無職で金持ちの親族に養われている、と言う所で書生さんと言ってよいのでしょうか。




