上
「春ですよ。春ですよ。」
暖かな春風が、ここ、逆さ虹の森にやってきて、声をかけました。
春風が、森を駆け抜けると、冬の間に積もった、雪がみるみる溶けます。
芽を出した草花が、茶色い地面を、鮮やかな若草色に染めていきます。
すると、芽吹いた草花の出すあまい香りに誘われた動物たちが、洞窟や木の穴倉から、次々と現れました。
最後に春が届いたのは、この森一番の臆病者。クマの巣穴でした。
春の陽気にさそわれて、その巣穴からも、小さな茶色い影が、ぴゅっと、飛び出しました。
それは、子グマでした。体と同じ、茶色のつなぎを着た子グマは、ドングリ目玉をキョロキョロ動かし、ラグビーボールのようにあっちへぴょんぴょん。こっちへごろごろと、夢中になって跳ね回っています。
「ぼうや。外は危ないわ。早くこっちへもどってらっしゃい。」
今度は巣穴から、臆病者の母グマが、ひょっこり首だけ出して、子グマを叱っています。
母グマは、冬の間に子グマを産んで巣穴で育てていたのでした。
「ねーねー、かあちゃん、これなあに? のりもの?」
「それは、木の枝よ。冬の間に雪の重みで折れちゃったのよ。」
森の、あちこちに落ちている木の枝。それらを目印のようにして、枝から枝へとジャンプして、子グマは遊びだしました。
「ああ、危ない。転んだらどうするの、ぼうや。」
心配のあまり、両手で顔を伏せている母グマをよそに、子グマは夢中で、あちこちを駆け回ります。
「うわー、うわー。きらきらしてる。つめた~い、これなあに?」
「それが雪よ。」
「こんな、ふわふわな雪が、あんな重たい枝をおるの? なんで?」
「もう。いいから、こっちへいらっしゃい。外は怖いものでいっぱいなんだから。」
母グマは、びくびくした表情で子グマを捕まえると、胸に抱えて巣穴へと戻ろうとしました。
「あ! かあちゃん! あれ! あれ! お空のあれなあに?」
子グマが鼻をふんふん鳴らして、母グマの肩から両手を抜き、空に向かってぱたぱた振っています。
子グマが手を振る先には、春を迎えた緑の森を覗き込むように、逆さの虹がかかっていました。
虹はお日様と重なり、お話でもしているかのようにきらきらと輝いています。
「ああ、あれは逆さ虹よ。むかしむかしから、この森に掛かっているの。だから、ここは逆さ虹の森。」
「きれいだねぇ。ぼく、あそこに行ってみたいなぁ。」
「それは無理よ。」
「どうして?」
「ほら、見てごらん、虹の足は両方とも雲の中。逆さまの虹だからどうしたって行けっこないもの。」
母グマはそう言うと、子グマを胸に抱えて、さっさと巣穴へと潜りました。
◆◆◆◇◇◇◆◆◆◇◇◇
朝のことです。母グマは、血相を変えて巣穴から出てきました。
「ぼうやー! ぼうやー! どこにいるのー!? 返事してー!?」
朝起きると、姿の見えなくなった子グマを、母グマは大声を出して呼びます。
けれども、雪解けの水が作った、小さな小川の音が、チロチロと聞こえるだけです。
巣穴の周りを、あちらこちらと見回しますが、それらしい気配はありません。
母グマは、どうしたものかと考えながら、顔を青くして、天を見上げました。
すると、母グマは、木のてっぺんにいる、子グマを見つけたのです。
子グマは、辺りで一番高い木の上の先っぽに立って、懸命に、両手を伸ばしています。
母グマの青い顔が、更に青くなりました。
「ぼうや!!」
母グマが、悲鳴を上げるように声を上げたとき、子グマは、バランスを崩して、そのまま地面へ、真っ逆さま。
「危ない!」
子グマは、危うく地面に叩き付けられるところでしたが、母グマが、考えるより先に動いたおかげで、寸でのところで、抱き留められました。
「ぼうや……。ああ、良かった。母さん、肝が潰れちゃったわよ。」
「あっ。かあちゃん、かあちゃん。見ててごらんよ。」
子グマは、そう言うと、母グマの心配などまるで気にせず、また元気に木をよじ登り始めます。
これでは、母グマの肝が、いくつあっても足りません。母グマは、慌てて子グマを、木から引きずりおろしました。
「どうして、また木に登ったりするの? 危ないでしょう。」
「だって、ぼく、逆さ虹に行きたいんだもの。木の上からなら、行ける気がするの。さっきもねぇ、もうちょっとで、手が届きそうだったんだよ?」
いくら木が高いとは言っても虹に手を掛けるには高さが全然足りません。
母グマは、そう言って聞かせますが、子グマは、また木に登り、逆さ虹へ行くと聞きません。
母グマは、大きなため息を、一つしました。
「わかったわ。じゃあ、いい方法を教えてあげるから、こっちへいらっしゃい。」
母グマはそう言うと、子グマを連れて、巣穴へと戻っていきました。
巣穴には、去年の秋に貯め込んでいた木の実が、まだ少し残っていました。その中から、母グマは子グマに、ドングリを一つ手渡しました。
子グマは、初めて目にするドングリを、夢中で見つめました。
「きれいねえ、おかあちゃん。つるつる、ぴかぴかだねえ。」
すると母グマは、子グマの手を取り、「ドングリ池の伝説」を話して聞かせました。
「あのね、ぼうや。この森の反対側にはね、『ドングリ池』って言う、大きなお池があるの。」
「そのドングリ池に、ドングリを投げ込んで願いをすると、叶うと言われているの。」
その話を聞いた子グマは大喜びをして、母グマの手を振り払い、さっさと巣穴から出て行こうとします。
「わかったよ、かあちゃん。それじゃあ、ぼく、『ドングリ池』に行ってくるね。」
「ちょっと、お待ちぼうや。一人でなんて、危なっかしくて、いけないわ。」
母グマは、子グマの手を引いて、森一番、親切なキツネを訪ね、訳を話しました。
「そう言うことだから、道案内をお願いできるかい。キツネさん。」
「うんうん。そう言うことなら任せといてよ、クマさん。」
親切なキツネは、にっこり笑って子グマを連れて、「ドングリ池」を目指しました。
臆病な母グマは、心配そうな目をして、二人の後姿を見送りました。
「わたしも、本当は、願い事がひとつ、あるのだけれど、森の反対側までなんて、考えただけでも恐ろしいわ。」
母グマは、そうつぶやいて自分の巣穴へと戻っていきました。