里斗と秋葉・ろく
次の日、昨晩と同じような時刻に里斗の住処を訪れた律だったが、扉を開けてくれた里斗の隣に秋葉の姿はなかった。
今夜の秋葉は涙ひとつ見せておらず、ただ静かに里斗の少し後ろに立っている。
予想外の状況に少し驚いた律は小首を傾げながら「こんばんは、里斗」と挨拶をしつつ言外に「秋葉はどうしたの?」と目で問いかけてみたが、里斗も同様に「こんばんは、律」と返しながら両肩を軽く上下させ、降参の色を送ってくるだけたった。
それなら、と里斗の前を通り過ぎて直接秋葉と顔を合わせ、いつも通りに「こんばんは、秋葉」と声をかける。
一見、普段通りの無表情ととれる面持ちだったが、その内の妖力の色とを見比べれば、それが何かを頑なに貫こうとしている決意の表れなのだと気づいて、律はそれには触れずに自分の用件を口にした。
「秋葉、昨日はクッキーを有り難う。一緒に食べられなかったのは残念だったけど、とっても美味しかったよ。それでね、妹達がこれ、秋葉に御礼だって……」
昨日、律の家に持って行くはずだったバスケットと中身のクッキーだったが、識の登場によって訪問が延期となってしまったため、律が預かり持って帰ったのだった。大量のクッキーは見事、妹達のお腹の中に収まり、今日はバスケットを返すため夜中の訪問ついでに持って来たのだが…………律はバスケットを差し出して中身を秋葉に見せた。
「……キノコ?」
「そう、秋葉が好きなのあるかな……今日、妹達が採ってきたの。サクラシメジにヒラタケ、ボリボリと……あとオトメノカサもあるよ」
「ボリボリ?」
知らない名前なのか、秋葉がちょこんっと頭を傾けるとすかさず里斗が「ナラタケのことだよ」と補足してくれる。
秋葉はバスケットの中身をじっくりと眺めてから両腕を輪にしてそれを受け取り、律に視線を合わせた。
「あ……有り難う、律。キノコはどれも大好き…………律のおうちにいるみんなにも、あの……有り難うって……」
「うんっ、ちゃんと伝えるよ、秋葉」
「……このキノコ、芹も……採ってくれたの?」
珍しく秋葉からの質問に少し驚きながらも律は苦笑いで答える。
「芹?、ああ、あの子は昨夜張り切ったせいか今日は朝からダラダラでね。キノコ採りに行っている間はうちでお昼寝してたよ。その点秋葉は偉いね。あまり寝てないでしょうに、ちゃんと今朝もお洗濯してあったし」
気づいてくれていた事が嬉しかったのか秋葉が照れた顔を隠すように下を向き、それでも小さな頭を上下に動かすと、それを見た幼馴染み同士の二匹は揃って目を細めた。
「はーっ、秋葉ってば毎日可愛い」
「同感だよ、律。今朝は起こしてあげられなかったのに、一人で起きて窓も開けて洗濯してくれたんだ」
「そっか、そっか。寝ぼすけな里斗と違って秋葉はしっかり者だね」
里斗が帰宅した時間を思えば寝坊も致し方ないとわかってはいたが、そこは幼い妹妖狐達の面倒を長年見てきた律だ、とにかく秋葉の頑張りを認める言葉をかけると、それに後押しされたのか秋葉が再び固い表情になり、その決心を口にする。
「律……もう、来てくれなくて、大丈夫だよ」
突然の宣言に里斗も律も声を失い目をしばたたかせた。その反応を自分の声が届かなかったのかも、と勘違いした秋葉が更に言葉を重ねる。
「一人で寝られるから……大丈夫」
「えっ……でも……ねぇ、里斗」
律が言葉を探しながら里斗を仰ぎ見れば、里斗の顔は驚きから悲しみと苦みが混じったように変化していた。しかし口から出てきた言葉は固く冷え切っていて、感情を窺わせない初めて秋葉が聞く声だった。
「わかったよ。秋葉の好きにすればいい。俺はもう識の所に行くから、律は……」
星一つみえない真っ暗な冬の夜のごとき冷めた目で秋葉を見下ろしている里斗の言葉を律が遮る。
「私はもうちょっとだけ秋葉とお喋りしてから帰ることにする。せっかく来たんだし、昨日はお喋りし損なっちゃったもの」
楽しそうな言葉のはずなのにそれを口にしている律もそれを聞いている秋葉も表情を強ばらせたままだった。里斗に至ってはどこか投げやりな視線を律に落とし、諦めたように息を吐くと何も言わずくるり、と身体の回して静かに家を出て行く。
ぱたん、と扉の閉まる音がすると律は床に座りこんで、今度は自分が見上げる位置にある秋葉の顔を見た。
泣き出す寸前で凍ってしまったような秋葉の瞳を里斗は見ただろうか?、と思いながら自らの尻尾で秋葉の頬を撫でてみるが、当然、氷が溶けることはない。
せめて泣いてくれないかなぁ…………昔は自分が触れると笑いはしなかったけれど、我慢できずに泣き出す秋葉を見て、ちゃんと自分の前では我慢せずに感情を出してくる彼女に安心したのだ。
秋葉は他の妖狐達から何をされても何を言われてもまるでそこに何もないかのようにじっと耐えてしまう子妖狐だったから、涙を零してくれる事で律の存在を認めてくれたような気がして嬉しかった。そんな秋葉が突然現れた識や同い年の芹を気にしてあんな事を言い出したのなら、それはそれで他者への関心を喜ぶべきなのかもしれないが……。
「秋葉……芹と自分を比べる事はないんだよ?、うちは、知ってると思うけどチビ達が多いからとにかく手がかかるの。だから年齢が上がると必然的にやる事が増えるし、それが嫌で独立して出て行く妹達も何人もいる。大所帯のせいで一匹くらい減っても全然平気だもの。だけど秋葉はずっと里斗と二人で暮らしてきたでしょう?、里斗がいなくて寂しいのは当たり前なんだから強がる必要はないと思うけどな」
しかし秋葉はただ頭をふるふると横に振るだけで律の言葉に気持ちを軽くした様子はなかった。
「一人で……大丈夫……」
頑なに同じ言葉を繰り返す秋葉を見て、彼女の内の妖力にも迷いがない事で決意の固さを痛感したのか、律はもう一度彼女の頬を撫でてから膝立ちになって顔を近づけ、栗色の瞳を覗き込む。
「なら、私からお願い。うちの妹達ね、昼間は元気だから夜は結構早く寝ちゃうの。もし秋葉が寝る前にお喋りする相手が欲しいな、って思ったら時間を持てあましてる私を誘ってくれる?」
律からのお願いをしばらく考え込んでいた秋葉の顔がようやく、ゆっくりと縦に動いた。
「じゃあ、今夜はもう遅いから帰るね、おやすみ、秋葉」
律が立ち上がるのを追って秋葉の視線が上向きになる。しっかりと目を合わせて「おやすみなさい、律」と返してくる秋葉の顔がほんの少しだけ硬さが取れた気がして律は頷いてから自分の住処へ戻った。
しかし律の期待に反して、秋葉から一緒に居て欲しいという願いが届くことなく二日が過ぎる。あれから毎晩、里斗は識の所を訪れているらしく周辺の妖狐達の間では様々な憶測が飛び交っていた。
それでも毎朝、ちゃんと洗濯物が干してある事は確認しに言っていた律だから秋葉の生活サイクルは安定しているのかも、と思っていたのだが…………それは妹達が晩ご飯を食べている間、しまい忘れていた洗濯物用の竹カゴを取りに律が住処の外へ出た時だった。
三人の女妖狐が偶然近くを通りかかったのか、律を見つけてからかうような高い声をかけてくる。
「あらあら、育児で大忙しの律じゃないのぉ」
「ほんとだぁ〜、番いもいないのに子だくさんの律だわ」
「こんな時間までお洗濯?、大変ねぇ」
この女妖狐達は五年ほど前にこの地にやって来て定住した三人で、その時には既に成体となっており周辺のオス妖狐達がこぞって誘いをかけるほど手入れの行き届いた毛並みと間違いなく美しい部類に入る外見を有していた。
ただ自分達の美貌をひけらかしている部分や気遣いの無い物言いが同性の女妖狐からは反感を買っており、律にとっても出来れば関わりたくない部類に属している。
しかしここまで近い距離で名を口にされたら聞こえなかったふりは無理だろう、とそっけなく「こんばんは」とだけ言ってすぐに妹達の元へ戻ろうと後ろを向くと、なにが楽しいのかケラケラと下卑た笑い声を三人同時に上げながら更に言葉をかけてきた。
「でもよかったわね、律。あんな枯れ葉色の出来損ない妖狐の面倒まで押し付けられずにすんで」
「ほーんと、ほんと。一緒にいたらこっちまで色が移りそうだもの」
「いつまで経っても小さくて、口もきけなくて……ついに里斗にも見放されたそうじゃない」
カゴを地面に落としたことさえ気づかず、素早く振り返った律は全身の毛を逆立てて三人に向かいこれ以上はないというくらい細い目を吊り上げる。
「……何を言っているの?」
唸るような声で問い返すが、その反応すら彼女達にとっては笑いを誘うのか更にきゃっ、きゃっ、と楽しそうに互いを見合わせて話を続けてきた。
「だってみんな知ってるわ。里斗が毎晩、識の巣穴で過ごしてるってこと」
「里斗もひどいわよねぇ、自分の代わりにあんたに御守を頼もうだなんて」
「そうそう、だから私達、言ってたのよ。いくら律だってあの枯れ妖狐の世話は嫌だって断るのも当然よね、って」
彼女達の口から出てくる言葉に驚きよりも怒りが勝って律は両手をギュッ、と固く握りしめ、叩きつけてやりたい妖力を必死で抑える。
「なっ……なにも……知らないくせにっ……」
けれど彼女達の興奮は徐々にエスカレートしていって、次第に自分達だけで言葉を交わし始めた。
「だいたい里斗も里斗よ、私達が散々誘ってあげたのにいっつも同じ事言って……」
「そうよねぇ、『俺には秋葉がいるからね』とか言ってたくせに、ちょっと珍しい女妖狐が現れたらホイホイ通っちゃうんだもの」
「結局、毛色の変わった者同士ってことなんじゃない?」
「ああ、そうかも。その点では納得だわ。枯れ葉色よりは識の毛並みの方が綺麗ですものねー」
「体付きだって私達の次くらいに魅力的だと思うわ」
「私の尻尾にもあの銀粉が混じればもっと素敵になるのに……」
どうやら識の容貌に関してはケチを付ける部分が見つからないようで、三人達もその美しさを心ならずも認めているらしい。自分達は相手にされなかったが、識ならば仕方ないと思っているのだろう、それでも自尊心が傷つけられた腹いせは秋葉を哀れむ声となって次から次へと畳みかけるように出てくる。
「わざわざ里斗が通わなくても、もう一緒に住んじゃえばいいのにね」
「やだっ、そうしたら枯れ妖狐ちゃんはとんだ邪魔者になっちゃうわよ」
「あら、忘れてたわー。でも、どうせそろそろ里斗も忘れてるんじゃない?、あんな出来損ないの存在なんて」
「えーっ、それって可哀想〜」
「今だって全然顔を合わせてないって言うし」
「もう時間の問題かぁー、お気の毒さまぁ」
三人の会話を聞きたくないのにその場から立ち去れずにいた律が誰が言ったかもわからない言葉に怒りを静めて耳を反応させた。
「ちょっと待ってっ、今、全然顔を合わせてないって……本当っ!?」
いちを全て実在するキノコ名です。
そして味を気にせず、下処理や調理法をきちんとすれば
全て食べられるキノコですっ。