里斗と秋葉・に
コンッ、コンッ、と響く外扉を叩く控えめな音に里斗の真っ黒な耳は片方だけピクリ、と反応を示すが、すぐに腕の中の甘い匂いに誘われてペタリ、と張りを失う。
すると外から「ごぉ、よん、さん、にぃ……」と不吉なカウントダウンが忍び寄ってきて、「いちっ」と聞こえると同時に里斗の意識はパチリと覚醒した…………が、時すでに遅く、先程の比ではない勢いでドンッ、ドンッ、ドンッと蹴破られそうな勢いで扉を叩く音が家全体に響き渡る。焦った里斗は、チッ、と舌打ちをしてから名残惜しくも自分の腕の中の秋葉から身体を離し、音にも気づかぬほど深く寝入っている姿を確認すると慎重に彼女に上掛けをかけて寝室を出た。
居室を足早に抜けてドンッ、ドンッと鳴り続けている音を止めるべく急いで外扉の取っ手に手をかける。
と、そこには両手をグーにして左右の手から交互に拳を繰り出していたと思われる里斗の幼馴染み、女妖狐の律が次の打撃の為、見事な攻撃態勢で扉の前に構えていた。
寄りかかるようにして開けた扉に身体を傾かせ腕組みをして幼馴染みと相対した里斗は、ふぅっ、と少々わざとらしく息を吐き出すと殊更不機嫌な声色で「おはよう」と挨拶の言葉を口にした後、冷ややかな視線を向ける。
「律……うるさいよ。俺達、まだ寝てたんだ」
ようやく扉が開いて攻撃態勢を解除した律は里斗の放った「俺達」という単語を聞いて灰色の耳をピョコリと震わせた。
「その格好を見ればわかるわ。それにしても俺達って事は、秋葉もまだ寝てるの?」
三角耳に続いて片方の眉もくくっ、と粗く動く。里斗の方は「その格好」と言われて改めて自分が木綿で出来たゆるいズボンとはだけたシャツ姿であることに気づくが、生まれた時からの付き合いである律の前では恥ずかしさなど無く、未だ寝たりない目で「そうだよ」と短く応える。
「具合が悪いとか?」
「そうじゃないけど……」
「だったら起こしなさい、里斗」
この周辺を住処にしている妖狐達の中でも特に里斗は浮いた存在だった。
まず何よりその見た目の違いが違和感や恐怖感、もっと言えば嫌悪感を抱かせる。
妖狐の姿形は人族と類似しており、違いと言えば大きく尖った両耳と後ろの腰あたりから生えている尻尾の存在だ。
そして通常の妖狐ならば髪や耳、尻尾の毛色は白から灰色なのだが里斗は瞳の色に至るまで全てが真っ黒なのである。
もともと生まれた時は普通の薄い灰色だったと年長の妖狐は語った。しかし成長するにつれその色は徐々に濃くなっていき生まれて三年を過ぎた頃には頭も尾も真っ黒な特異な妖狐の姿になってしまったのだ。
色が変わっていくにつれ、周囲の妖狐達の態度も次第に奇異な者を見るような目つきになり距離を取られるようになったが、それでも変わらず接してくれたのは同い年の女妖狐、律だけだった。
しっかり者で面倒見の良い律は同じくらいの歳の妖狐達の間ではリーダー的な存在になっている。面倒見の良さは里斗にしか懐いていない秋葉にも発揮されていて、秋葉も表情には出さないが律を認めているのだろう、里斗以外の妖狐で口をきく唯一の存在だ。
「窓も開いてないし、洗濯物だって干してない。これじゃあ秋葉が里斗の傍にいる意味がないでしょ」
「そんなの、こっちの勝手じゃないかな?」
「他のみんなはそうは思わないのよ、里斗」
「他の奴らにどう思われようと……」
「関係ないとは言わせないわ。真っ黒い妖狐とほとんど妖力を持たない栗毛の女妖狐なんて他所の土地に行ってみなさい。あっという間に標的にされるんだから」
里斗は少し悔しそうに眉根を寄せて口を噤んだ。
そんな事は律に言われなくても自分が一番良くわかっている。いくらここの妖狐達が自分に近づかないまでも同じ場所で暮らす事を許しているのは里斗がここで生まれ育った妖狐だからだ。そして、その里斗が拾ってきた女妖狐はこれまた妖狐にはあり得ない毛色だったが、こちらは自分達の脅威にはほど遠い量の妖力しか有していない。だから里斗の世話係として……暗に里斗の妖力が暴走した時の生け贄として秋葉の存在は許されているのだ。
誰もが分かっていて口にしない秋葉の存在意義……それを無視して律は秋葉を本当に里斗の世話係として接してくれている。もちろん里斗は秋葉の事を自分の世話係とも暴走の生け贄とも思っていない。
そんな幾つもの面倒な目で遠くから監視されるように暮らさなくてはならないならこの土地を出て行こうか、と考えた事は一度や二度ではなかった。それでもこの場所に留まっているのは意外にも秋葉がこの件に関してだけは首を縦に振らないからだ。
理由を聞いても決して答えてはくれないが、秋葉なりに愛着を覚えているのか、それとも自分の故郷からこれ以上離れるのが嫌なのか……どちらにしても律の言う通り、ここより暮らしやすい土地がそう簡単に見つかるとも思えず、特に自分の毛色は悪目立ちしすぎる自覚はある。ヘタに敵意を向けられた場合、自分の妖力なら撃退できるが秋葉はそうはいかないだろう。
それでも最悪の場合、秋葉を守り通す覚悟は出来ていたが、今がその時ではない、と判断して里斗は「わかったよ」と肩の力を抜いた。
「窓を開ければいいんだろ?……あと、なんだっけ?、洗濯?……あー、ずっと秋葉に任せっきりだったからここ何年も自分でやってないけど、まぁ、なんとか出来るか……」
「里斗!……私は秋葉がやるべき事を代わりにやれって言いに来たわけじゃ……」
そこで、スッと里斗の瞳の温度が下がる。
「律、秋葉はやるべき事はちゃんとやってる。むしろ、やりたくない事だって俺のために……」
その時、里斗の背後で確かに閉めたはずの寝室の扉がカチャと開いた。
「……り……と……」
未だ寝ぼけているのか、栗色の三角耳も短いけれどふさふさの尻尾もヘタリ、と垂れたまま、だぼだぼの綿シャツ一枚を夜着にしている秋葉が片手で目をこすりながら立っている。自分がベッドを出る時は完全に寝ていたはずの秋葉がこの短時間で半覚醒の状態でも立って歩いているのが信じられないのか、里斗は仰天の表情で「秋葉?」とその意味を問うように名を呼んだ。
里斗の口から出てくる「秋葉」はいつも甘くて、その音を捕らえるとどんな時でも秋葉の耳はピンッとなる。
「里斗」
扉から手を離した秋葉が一直線に戸口にいる里斗に向かって駆け寄ってきた。
それを迎え入れる為、大きな尻尾をゆらり、と揺らしながら身体を反転させた里斗が両手を広げると、秋葉はぽふんっ、と…………里斗の尻尾にしがみつく。
「…………うん、秋葉は俺より俺の尻尾が好きなんだね」
感触を確かめるようにゴシゴシと頬をこすりつけている秋葉に堪らず「ぷっ」と律の口の中から空気が飛び出した。
「なんだ、ホントに調子が悪いわけじゃないのね」
安心したような声に実は律が心配していたのは秋葉の体調だったのかと納得し、もう九年も前になるが里斗が秋葉を自分の傍に置く、と決めた時、まだ赤ん坊だった栗毛の子妖狐の世話に色々と手を貸してくれた事を思い起こす。しかしそんな感慨も一瞬で、里斗は「だから言ったよね?、信じてなかったの?」と尻尾を秋葉の好きにさせながら再び律に視線を戻した。
「だってこんな時間までアンタ達が家から出てこないなんて今までなかったから……」
そう言われて里斗は呑気にも「そうだったかな?」と首を傾げる。確かに夜中に妖力が暴走したのは久しぶりだったが、秋葉が本当に体調を崩した時もあったはず、と記憶を探り、ああ、あの時は必死に俺に気づかれまいと隠してて洗濯物を干してる時に倒れて…………そうだ、律が偶然居合わせてたんだっけ、と納得で頷く。色々と過去の思い出を浮かべている里斗をそのままに彼の横をすり抜け、律は真っ黒な尻尾に隠れるようにしている秋葉に近づくと腰を落としてニコリ、と笑いかけた。
「おはよう、秋葉」
尻尾に埋まっていた秋葉の顔がおずおずと動いて栗色の大きな瞳が律の笑顔を映す。
「……はよう、律」
唇がほとんど動いていない為、聞き取りづらくはあったが小さく開いた合間から出てきた挨拶の言葉と自分の名前をしっかりと受け取って律はゆっくりと秋葉に手を伸ばした。
重さを感じさせない程度にふわり、と秋葉の頭の上に手を置き、うんうん、と頷きながらやさしく撫でる。
「えらいぞ秋葉。里斗の馬鹿を心配して起きてきたんだね…………ちゃんとやるべき事を上手にやってるみたいだし。お馬鹿さんの里斗は秋葉より五つも年上のくせに妖力が強いだけの馬鹿妖狐だから、何か困ったら私のとこにおいで」
言われている意味を理解しているのかいないのか、珍しくいつもと違う意味で表情を凍らせた秋葉の両手からするり、と尻尾を奪い返した里斗はすぐさま秋葉と律の間に自分の尻尾を割り入れ、秋葉の視界から律を遮った。
「ちょっと待って、律。キミ、今、何回馬鹿って言った?」
しゃがんだままの律は見上げる格好で不敵な笑みを浮かべ幼馴染みをからかう。
「数を数えられない子は正真正銘のお馬鹿さんでしょう?」
清々しいまでの笑みに里斗は頬をひくつかせるしかなかった。
「馬鹿妖狐」ってアニマル感満載ですね……。