博物館に寄贈
「あれはなんなの?」
「あれはエルク……アメリカアカシカだ」
のそのそと歩く子連れの鹿を見ながら、アレックスはメリーの問いに答える。
アメリカアカシカとは北アメリカ大陸から東北アジアにかけて生息している大型のシカだ。
前述の呼び名以外にも『ワピチ』というものがあり、これはアメリカインディアンのショーニー族の言葉で『白い尻』を意味する『ワーピティ』から来ている、らしい。アレックスも昔図鑑で見た程度で、詳しくは覚えていなかった。
「こんな環境でも生命が存在しているって、なんだか素敵ね」
メリーがワピチを眺めながら言う。アメリカアカシカの雄は力の象徴ともされている。
ロッキー山脈という寒い地域でもたくましく生きているワピチはまさに力の象徴にふさわしいな、とアレックスは思った。
「あ……あの子達、逃げていくよ」
ワピチたちは何かを察したのか、この場を去ってしまった。
次の瞬間、後方から羽音のような轟音が聞こえてくる。
「なんだ!?」
二人は音の聴こえてくる方向を振り向いた。青い空にヘリが浮かんでおり、こちらに近づいてきている。
「軍のヘリか?」
アレックスたちは即座に草むらに身を隠した。といってももう見つかっているかもしれないが。
ヘリが着陸し、中からはヘルメットを装着し、寒冷地仕様の迷彩服に身を包んだ男が二人現れた。
「あれも軍なの?」
メリーが問いかけてくるが、アレックスにもよく分からない。
男たちはアサルトライフルを構え、慎重にこちらに近づいてきていた。
「とにかく頭を下げて、じっとしてろ」
アレックスはメリーに指示し、自身も頭を下げ、息を潜める。
男の一人がフラッシュライトを点けた。
まずい、こちらに向けられたら終わりだ。
気づかれないことを祈りながら、顔を伏せた。
男たちが何か話しているのが聞こえる。
恐る恐る顔を上げた途端、こちらにライトが向けられた。
「誰だっ!?」
男たちが声をかけてくる。アレックスは仕方なく立ち上がり、手を相手に見えるように上に上げる。
「民間人?」
「どうする?」
「何も怖がらす必要はない。助けてやろう」
男たちは警戒を解除し、こちらに近づいてきた。
「俺はジョナサン、こっちは相棒のクリスだ。君たちは?」
男が友好的に接してくる。とりあえず名前だけでも名乗っておくか。
「俺は……アレックス」
「私はメリー」
男たちは顔を見合わせ、またこちらを見た。
そして笑顔を作り、話しかけてくる。
「やっと民間人に会えた。実は俺たち米軍なんだ。いや……今となっては米軍『だった』のほうが正しいかな」
ジョナサンと名乗った男が懐かしむように話す。クリスはヘリに戻り、機体がいつでも上昇できるように準備していた。
「とりあえずヘリにどうぞ。ここは危険だ」
そう言ってジョナサンが二人を促す。
アレックスたちはそれに従い、ヘリのコンテナに乗り込んだ。
「扉を閉めてくれ」
それを聞いたアレックスがヘリの扉を閉める。
ヘリが離陸し、ある程度地上から離れるとソルトレイクシティとは別方向に向かって飛び立つ。
「なんで米軍の兵士がここに?」
「俺たちはパンデミックを仲間と共に生き残り、民間人の救助活動を行っているんだ。本部は以前と変わらずアーリントンだ」
「その本部にはどれだけの人数が?」
「まだ2000人ほどだ。思ったよりも軍の妨害が激しくてな。時には本部に大規模な部隊を送ってくる」
ジョナサンがクリスの隣から教えてくれる。アレックスとメリーはコンテナに積まれていたポークビーンズを取り出し、それを食べていた。
「とりあえず俺たちはあんたらを保護する。後のことは上が対処してくれるはずだ」
そう言ってジョナサンはクリスのサポートに戻った。アレックスはヘリの外を見る。
ロッキー山脈から少し離れ、雪が積もっているところが少なくなっていく。
米粒ほどの歩行者が見えるがそれが軍なのか民間人なのかは判別できない。
「メリー、大丈夫か?」
アレックスは不安そうにしているメリーに声をかける。彼女はこちらを見て
「大丈夫」
とだけ言った。
それを聞いたアレックスは座席に深く座る。思えば襲われては逃げ、襲われては逃げ、を繰り返している気がする。
医師たちの隠れ家に逃げ込んだ際に疲労は回復したはずなのだが、今感じている疲労はそれ以上だ。いつか軍には借りを返さないといけない。
「お母さん、今向かってるところにいるかな?」
「わからん」
メリーが不安そうに問いかけてくる。アレックスはそれに曖昧な返事をすることしかできなかった。
少し眠ろう。アレックスは座席に横になり、目を閉じた。
―
アレックスは全身をしたたかに打ち付け、目を覚ます。
「何があった!?」
「わからん! 突然、制御不能に……」
何故そうなったのかは全く理解できないが、どうやらヘリは制御を失い、回転しながら墜落しているようだ。
クリスが必死に機体を安定させようと試みる中、ジョナサンがパラシュートを二つ手渡してきた。
「お前たちはここから脱出しろ!」
そう言ってジョナサンがヘリの扉を開け、二人の背中を押そうとするが、それはメリーによって止められた。
「あなたたちはどうするの!?」
「俺たちのことはいい! あんたたちの命のほうが大事だ、さあ行け!」
ジョナサンが二人の背中を押す。二人は今度こそヘリから落下していった。
「そんな!?」
「メリー! パラシュートを開くんだ!」
そう言ってアレックスはパラシュートを開き、少し遅れてメリーもパラシュートを開いた。
「あのビルに降り立とう!」
そう言ってアレックスはアメリカ国旗が建てられた建物を指す。メリーはサムズアップでそれに答え、着地に備える。
地上まであとわずか数メートル。
メリーはなんとか四点着地を決め、アレックスは失敗したものの前転によって着地の衝撃を全身に分散させたおかげで事なきを得た。
しかし、安心するにはまだ早かった。
「アレックス!」
「メリー! クソ!」
ヘリコプターが墜落し、爆発した衝撃で老朽化が進んだ建物の屋上が崩れ、二人は下の階の叩きつけられる。
さらにその階が崩れ、また下に落ちた。
「うう……メリー……」
アレックスはなんとか体を動かし、メリーを探す。
メリーは運良く泊まり込みの社員のために用意されていたのであろうベッドに落下し、仰向けに倒れていた。
痛む体を引きずり、メリーのもとへと進む。
「メリー、メリー!」
メリーのまぶたが開かれた。まだ生きているようだ。
「ああ、私は大丈夫……アレックスは大丈夫なの!?」
傷ついたアレックスの姿を見たメリーが跳ね起き、アレックスの様子を伺う。
「体を打ち付けただけだ……じきに動けるようになる」
今度はアレックスが無理をして笑みを作る。メリーは不安そうだが、ハンドガンを構え、部屋と外のクリアリングを行っていた。
しばらくしてメリーが戻ってくる。この街には誰もいないらしい。
動けるようになったアレックスは立ち上がり、廊下に出た。
「ここは2階みたい。早く降りよう」
「ああ」
アレックスたちは階段を降り、玄関を通り過ぎて外に出た。
「この町並みは見たことがある。モーガンタウンだ、ウェストバージニア州の」
「知ってるの?」
「ああ、一度来たことがある。ここからアーリントンまで徒歩だと三日はかかるな」
アレックスはパンデミック前にここ、モーガンタウンに滞在していた時期がある。そのためここの地理には少しだけ詳しかった。
「ここはハイ・ストリートだろう。この路地の近くに立体駐車場があるから、そこに使える車があるかも」
「車を見つけたらアーリントンまで行くの?」
アレックスは黙って頷く。二人は今や舗装されておらず、ビルが崩れて発生した瓦礫を乗り越えて、立体駐車場へと向かっていった。
上から瓦礫が雪崩のように転がり落ちてくるが、それをなんとか回避しながらようやく瓦礫の向こう側の道路にたどり着いた。
左の道を行ったところに立体駐車場が見えた。車が出入り口を塞いでいるが、一人ずつなら何とかしては入れそうだ。
アレックスはまずメリーを先に入らせ、次に自分が入った。
駐車場は3階建てでかなりの数の車が停められていた。もちろんきちんと並べられていない車もあった。
「使えそうなものがないか探しておけ」
メリーが頷き、アレックスとは反対側から探索を初めていった。
アレックスは1階には特に何もないのを確認すると2階、3階へと順に上がっていく。
1台だけ白いバンがあり、後ろのドアを開いてみる。
どうやら強盗団が使用していたらしく、中には大量の弾薬やさまざまな種類のマスクが並べられていた。
その中からショットガンの弾を取り出し、リュックに詰める。
バンの中身を漁っているとひとつのハンドガンを発見する。
「ソーコムか」
それは大型の自動拳銃、『H&K Mk.23』だった。『コルト ニューサービス』と『レミントン M11-87』しかないこの状況では持っておいて損はないだろう。
アレックスは腰のホルスターにソーコムピストルを挿し、コルト ニューサービスを拾ったハンドガン用の弾薬と共にリュックの中に放り込んだ。
「他には……なんだ?」
突然、地面が揺れ、巨大な足音が聞こえてくる。
その足音は段々と大きくなってきたため、アレックスは咄嗟に晩の中に飛び込み、ドアを閉めた。
運転席のフロントガラスから様子を伺う。地響きとともに音の主が姿を現した。
「何だあれは?」
アレックスは我が目を疑う。
駐車場の外には博物館に展示されているような骨でできたティラノサウルスが立っていたからだ。
厳密にはそれはティラノサウルスの標本などではなく意志を持ち、手の代わりに巨大化したプテラノドンの翼を持つ形容しがたい異形の存在だった。
その怪物は視線を感じたのかこちらを向く。
アレックスは可能な限り頭を下げ、見つからないよう身を隠した。
「……」
怪物の唸り声が聞こえる。こちらを覗いているのかバンのフロントガラスが奴の鼻息で曇っていた。
ふと思い出し、後ろを振り向くがここからはメリーの姿は見当たらなかった。彼女もどこかに隠れていてくれればいいのだが。
「グオオオオ!!」
怪物が雄叫びを上げる。
耳を塞ぎたくなるその咆哮は獲物を見つけた肉食動物のそれだった。
アレックスはバンから飛び出し、地面に伏せる。
次の瞬間、バンが宙を舞い、アレックスの目の前に落ちた。
「くっ……」
ほぼ一瞬で跳ね起き、怪物に向かってさっき拾ったソーコムピストルを向ける。
崩れ落ちた駐車場の隙間から怪物が顔を覗かせていた。どこからどう見てもティラノサウルスの化石にしか見えない怪物は、目がないのにこちらがどこにいるか見えているようだった。
怪物が唸り声を上げる。ここにいてはまずい、そう感じたアレックスは後ろに振り向き、走り始めた。
背後で怪物が吼え、アレックスを追跡する。駐車場を建てるのに使われた鉄筋やコンクリートなどものともせずに。怪物は逃げる獲物を追いかけ始めた。
アレックスは隣のビルの窓をハンドガンで撃つ。ガラスにヒビが入り、アレックスの飛び蹴りによって粉々に砕け散る。
アレックスは隣のビルに滑り込み、立ち上がって階段を2段飛ばしで駆け下りる。
怪物が地面を踏んだ振動で倒れたキャピネットを飛び越え、大通りに出る。
ビルはアレックスが出ると同時に崩壊を始めた。
さらにアレックスは逃げる。
怪物は車や瓦礫程度なら踏みつけ、蹴り飛ばし、小さな建物は体当たりで破壊しながらアレックスを追いかけていた。
やがて彼を追い詰めた怪物はゆっくりと、しかし確実に獲物との距離を詰める。
充分な距離をとった怪物がアレックスに襲いかかる。
しかし、アレックスは怪物の股の下まで全力で走り、博物館に続く扉を開いて中に逃げ込んだ。
―
「ハア……ハア……」
博物館は吹き抜けになっており、2階には古臭い壺や粘土で作られた美術品が並んでいるのが見える。
1階は恐竜の化石などが展示されており、部屋のどこかから、なにかの映画の音楽が流れていた。
「ここに隠れよう」
アレックスは1階の奥に並んでいる小動物の化石の展示コーナーに身を隠した。
ここならすぐに他の展示品に隠れることもできる。上手くいけば駐車場まで戻ることができるだろう。
ほどなくして出入り口辺りの壁が崩れ落ちる音と共に怪物が入ってくる気配を感じた。
アレックスは展示品の陰から顔を覗かせる。
怪物は顎が地面に擦れそうなほど姿勢を低く保ち、こちらにゆっくりと向かってきていた。
切れかけたライトがまるで映画の演出のように怪物の姿を照らし出す。流れ出ている音楽が雰囲気を作り、アレックスの緊張と興奮を高める。
博物館内だけがまるでジュラシック・パークか何かの世界に思えた。
曲はリピートしているのか、再びイントロが流れ始める。
怪物が体に生えた巨大な翼でアレックスのいる場所を薙ぎ払う。アレックスは転がって照明の下へと躍り出た。
「……」
怪物がアレックスの顔の数メートル前まで顔を近づけてくる。
お互いが照明に照らされ、しばらく睨み合う。
やがて痺れを切らした怪物が口を大きく開き、アレックスを飲み込もうとした。
「止まりなさい、キャシー」
怪物の背後から声が聞こえてくる。怪物は硬直し、名残惜しそうに顔を引っ込めた。
「やっと会えましたね、兄さん」
透き通るような美しい声が館内に響き渡り、足音が近づいて来る。暗がりから近づいてきた声の主の姿が照明に照らし出され、ようやく視認できるようになった。
まるでアニメやゲームの世界から出てきたような可愛らしい顔立ちだった。赤と白を基調とし、所々にフリルが付いたドレスを纏っており、薄めの金色の頭髪にはフリルが着いたヘッドドレスを着けている。
「お前が、ジェミニ?」
アレックスはこちらに歩いてきた少女に向かって言う。
「ええ。私はテミス。あなたの妹であり、私の妹のイシュタルの姉でもあります」
そう言って彼女は立ち止まり、テミスは一礼する。その動作は貴族を想わせる、上品で優雅なものだった。
テミスはアレックスに近づき、彼の手を取った。
「こうやって話すことができて嬉しいです、兄さん。さあ、行きましょう」
彼女の突然の行動にアレックスは驚き、その手を振り払う。そして一体どこに向かうというのかを尋ねた。
「どこって……帰るのですよ、私たちの屋敷に」
「屋敷だと? そこに連れて行って何を……そもそもお前達の目的は一体?」
それを聞いたテミスはさも嬉しそうに話し始める。
「あら私ったら……あなたに出会えた喜びと興奮のあまり、肝心なことを伝え忘れていました。私とテミスは軍を潰そうと思っているのです」
彼女の予想外の返答にアレックスは面食らう。
「自分たちの生みの親どころか、その組織まで潰そうというのか?」
「あんな奴ら、私は生みの親とは認めません。信じることができるのは私の法と、あなたとイシュタルのみ。あんな邪魔な組織はたたきつぶして、ウイルスを有効利用させてもらおうかと思っています」
「あのウイルスをか?」
ウイルスというのは十中八苦、世界中に軍が散布させたあのウイルスのことだろう。
「また世界を破滅させる気か!?」
「そんな気はありません。軍を倒し、ウイルスを使って私たちにとって理想的な世界を作ろうかと」
彼女はひどく独善的な思想を嬉しそうに語る。これじゃあ軍と何も変わっていないじゃないか、アレックスはそう思った。
「お前にとって理想的な世界が、住みやすい世界になるとは限らないぞ」
「なら兄妹で暮らすことができる世界を目指すとしましょうか」
「どっちにしろお前の好きにはさせない、お前やその妹に手を貸す気もない。こんな馬鹿なことはやめておけ」
アレックスがそう言った途端、テミスの表情が凍りついた。信じられない、といった顔をしている。
突然、テミスが腰に挿していたレイピアを抜いた。それには二つの剣が取り付けられており、長いほうがレイピア、短い方はダガーといった作りになっていた。
「手荒な真似はしたくないですが……無理矢理にでも私のものになってもらいます」
「何言ってる?」
アレックスの問いには答えず、テミスは指を鳴らす。すると先程まで眠っていたキャシーが起き上がり、こちらを睨みつけてきた。
「キャシー、彼を殺してはダメですよ」
キャシーは頷き、足踏みを始めた。一方、テミスは驚異的な跳躍力でジャンプし、キャシーの背中へと飛び乗る。
「さあ、行きます!」
テミスが声を張り上げ、キャシーが天に向かって吼える。
アレックスはリュックからリボルバーを取り出し、構えた。
―
崩壊し、穴が空いた天井から雨が流れ込んでくる中、キャシーが突進してくる。アレックスはそれをなんとか回避し、キャシーとは反対方向へと逃げ出す。
しかし、テミスがそれを許さない。
彼女は地面に着地し、その後跳躍する。上からレイピアで突き刺すつもりだ。
「ふっ!」
アレックスはバックステップでそれを回避するが、テミスが剣を振り上げ、リボルバーが弾き飛ばされた。
「うっ……」
彼女が繰り出す剣撃を後ろに下がりながら避ける。テミスが大きく剣を振りかぶったところをアレックスは見逃さず、テミスを思い切り壁に蹴り飛ばした。
「きゃあ!?」
テミスは吹き飛んだが、なんと壁を蹴ってこちらへ突撃してきた。
アレックスは驚いたものの反射的にレイピアを持つ手を掴んでレイピアを引き剥がし、テミスを投げ飛ばす。
アレックスはレイピアを捨ててリボルバーを拾い、恐竜の化石が展示されているコーナーへと走った。
次はキャシーが壁をぶち破って現れる。噛み付かれそうになるが、横にローリングしてそれを回避することに成功した。
「フフフ、いつまで抵抗できるでしょうか?」
テミスが楽しそうに笑う。アレックスは舌打ちし、辺りを見渡した。
まずはキャシーを倒さないと。
アレックスは天井に吊り下げられたプテラノドンの標本にぶら下がるコンセントを発見した。
「あれを使えば……」
アレックスは2階の階段の位置を確認する。
キャシーの体の向こう側か……。
「キャシー! やりなさい!」
テミスがキャシーに指示し、キャシーがそれに応える。
キャシーが翼を羽ばたかせ、とてつもない風が発生した。
「うう……」
アレックスは飛ばされないように展示品に掴まる。テミスの方を見ると彼女は風などものともせず、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきていた。
このままではまずい。
「兄さん、降参しますか? ほら、もうこんなに近づいちゃいましたよぉ?」
テミスは興奮しているのか頬を赤らめ、声がだんだんと艶を帯びてきていた。
しかしアレックスはそんな彼女に魅力を見出すことは、今はできない。風に吹き飛ばされないように踏ん張ることに必死だからだ。
「諦めたらいかがでしょうか?」
いつの間にか、テミスはすぐ近くにいた。アレックスは彼女の姿を視界に入れないようにしながら送り込まれる風を耐えていた。
「そんなに必死になってまで私を否定する必要はないはずです。受け入れてしまえば……楽になれます」
テミスがアレックスの手を握る。これほどまでの強風にさらされながら、どうして彼女は当然のように立っていられるのだろうか。
アレックスはテミスの手を取った。その途端に風が止み、テミスが手を握り返してくる。
「フフフフフ……」
テミスがまたも不気味に笑う。しかしアレックスは降参したわけではなく、油断したテミスの体をキャシーに向けて投げ飛ばした。
「兄さん!!」
テミスの体は簡単に飛んで行き、キャシーの鼻っ面に直撃する。キャシーは悲鳴を上げ、暴れまわった。
「今だ!」
アレックスは2階に通じる階段まで一気に駆け抜け、飛ぶように階段を駆け上がった。
「コンセントは?」
2階に出てプテラノドンの標本の位置を確認する。そこに向かって助走をつけて走り、手すりを踏み台にしてジャンプした。
「ううっ!」
プテラノドンの標本の翼になんとか掴まり、落下を免れる。
怒り狂ったキャシーはアレックスの下で彼を食べてやろうと、一生懸命に跳ねていた。
そんなキャシーが立っている床にできた水たまりにコンセントを投げ込み、照明へ電気を送るためのスイッチをリボルバーで撃つ。
下でキャシーが感電し、凄まじい咆哮を上げていた。
「キャシー!」
テミスがキャシーに近づこうとするが、近づくと自身も感電するためどうすることもできず、ただ立って見ていることしかできなかった。
「くそ、落ちる!?」
キャシーが暴れるせいでプテラノドンの標本が揺れ、化石を吊るしていた紐がどんどんちぎれていく。
最後の一本がちぎれかけているのを見たアレックスは意を決し、下のアンキロサウルスの化石へと飛び降りた。
さっきから音楽を流していたスピーカーからオーケストラによる壮大な演奏が聴こえてくる。
アレックスはなんとか着地し、アンキロサウルスの標本から飛び降りる。その背後でキャシーは感電し、遂に力尽きたのか音楽のクライマックスと同時に、一つだけ空いていた大きい展示台に倒れこむ。
「やったか? やったのか?」
キャシーは動かなくなった。残るはテミスだけだ、彼女を倒してメリーを連れてここから逃げないと。
周囲を見渡し、テミスを探す。
彼女は倒れ込んだキャシーのそばで手で顔を覆い、泣いているようだった。
リボルバーを握り直し、ゆっくりと彼女に近づく。
しかし近づくにつれ、テミスの様子がおかしいことに気づく。やがて彼女は泣いてなどおらず、むしろ笑いをこらえていることに気づく。
「フフフ……大切に扱わないといけないものが一つ減った……フフ」
アレックスは傍にあったアンモナイトの展示品の陰に隠れ、そこから彼女の様子を伺う。
しばらくしてテミスは立ち上がり、こちらにありえない角度で首を向けた。
咄嗟に頭を引っ込めるが、見つかったかもしれない
「フフフ……キャシーがいなくなった分、これからはあなたとイシュタルに集中して愛を注いで差し上げますね?」
そう言ってテミスがレイピアを投げる。
レイピアの先端がアレックスの隠れているすぐそばの床に突き刺さった。
「そこにいるんでしょう? 兄さん」
テミスが跳躍する。どうやらキャシーの体の上からこちらを探しているようだ。
アレックスは匍匐し、テミスの死角を通って博物館の出入り口へと向かう。
しかし、突然降ってきた瓦礫によって出入り口が塞がれてしまった。テミスがこちらへ走ってくる気配を感じたアレックスは匍匐したまま横に転がり、受付カウンターの奥へと逃げ込む。
「クソ……退路は断たれたか」
アレックスは受付カウンターの奥の部屋へと逃げ込む。無意味とはわかってはいるものの扉を施錠し、部屋の中に取り付けられた非常用階段を駆け上がり、2階へと出た。
天井の数カ所に穴が空いている。壁をなんとか登りきることができれば、あそこから出られるかもしれない。
アレックスは中腰の姿勢を維持し、粘土で作られた展示品コーナーを抜けようとする。
しかし、テミスが突然飛び上がり、アレックスを地面に押し倒した。
「捕まえましたよ、兄さん」
テミスはアレックスに馬乗りになりながら、満面の笑みを浮かべて言う。
「離せ!」
アレックスは必死に彼女を引き剥がそうとする。が、彼女に腕を押さえつけられ、身動きができなくなる。
「じっとして。じきに駒たちが迎えに来ますよ」
テミスはアレックスを抑え付けるが、アレックスはなおも抵抗を続ける。次第にアレックスの腕が地面から離れ、彼女を押し返していった。
「どけっ!」
アレックスがテミスを投げ飛ばす。アレックスは起き上がり、逃げようとするがテミスに足を掴まれ、動けなくなる。
「逃がしませんよ、あなたは私の物です」
テミスが起き上がり、取っ組み合いになる。しかし、素手での戦いはアレックスの方が手馴れており、アレックスはいとも簡単に彼女を投げ飛ばした。
手すりを乗り越え、1階へと落下していくテミスにアレックスは、年度で作られた美術品の一つを彼女に向かって落とした。
それは降りしきる大粒の雨に打たれ、ドロドロに溶けてテミスを覆い尽くす。
「……」
アレックスは手すりから身を乗り出し、彼女の様子を伺う。しばらくして粘土でどろどろになったテミスが起き上がった。
「うう……ひどい」
「何?」
テミスが呻き、よろめきながら立ち上がる。彼女は顔を伏せ、泣き始めた。
「ひどい……服がドロドロ、ひどいよぉ……」
アレックスは彼女の予想外の行為と口調に戸惑っていた。美しかったドレスは茶色の粘土でほとんどが覆い尽くされ、顔や頭のところどころにも粘土が張り付き、いたたまれない姿となっていた。
「兄さんの意地悪ぅ……もう帰る! イシュタルぅ...兄さんがいじめるよぉ!」
先程までの丁寧な言葉遣いの彼女はどこに行ったのか。
まるで子供のように泣きじゃくり、挙句の果てにはその跳躍力を活かしてどこかに飛んでいってしまった。
その光景に呆気にとられていたアレックスは我に返り、壁の窪みに手をかけ、屋根に空いた穴に向かって登っていった。