必要なのはあなたじゃない
「覚えてるよね? ビズマークで会った時の事」
「ああ」
ファリに言われ、アレックスはビズマークでの出来事を思い出す。今まさに眠ろうとしていた時に、ファリがやってきたのだ。そしてその後、ファリを車内に招き入れ、朝になってからポートランドに向かったこともよく覚えている。
「その……その時に……」
ファリが顔を伏せ、黙ってしまう。それを見たアベリィはすべてを察した。
「その時にアレックスに夜這いをかけたってことね」
ファリはゆっくりと頷く。アベリィは瞬時うつむいた後、アレックスのほうを見た。その時の彼女の顔には、怒りとも哀しみともとれる、複雑な感情が浮かんでいた。
「その……私……」
ファリの申し訳なさそうな態度から考えるに、きっと彼女は、自分がアレックスのことを今でも愛していることを知っているのだろう。その上でこのありさまなのだから、自業自得と言われれば、肯定するしかない。しかしアベリィに、ファリを責めるような気は一切なかった。自身もまた、ファリのアレックスに向けた思いに薄々気づいていたからだ。
だから、彼女に向けて何か優しい言葉をかけるべきだと、アベリィはファリに近づく。その油断が命取りだった。
「うっ……」
首をきつく締めあげられ、急速に意識が遠のいていく。
「捕まえた」
囁くオメガの声が聞こえると同時に、アベリィの意識は途切れた。
「母体はもう要らない。そうでしょう?」
オメガがこちらを見る。しかし、そこにアレックスたち三人の姿はなかった。危険を察知し、いち早く物陰に身を隠したのだ。
「かくれんぼですか? いいですよ、私が鬼ですね」
アベリィの首に巻き付いていた髪がほどけ、頭をもたげる蛇のような動きを見せる。そして狙いを定め、矢のように、倒れた机に突き刺さる。
「そこにいるのはお父様ですね?」
オメガの予想は当たっていた。その机の裏には、アレックスが身を隠していた。オメガの髪が机を貫通してできた穴のすぐ真横に、アレックスの頭があった。
「やっぱりそうですよね? ね?」
オメガが歓喜の声を上げる。しかしその声色は、すぐに悪意に満ちたものに変わる。
「最初に見つかったお父様には罰ゲームですね」
逃げようとしたアレックスの右腕に白い髪の毛が巻き付く。次の瞬間には、体が宙を舞い、オメガの足元に倒れ伏していた。
すぐさま逃げ出そうとするが、喉元を踏みつけられ、両手両足を拘束され、身動き一つ取れなくなる。
「貴方だけは絶対に逃がしません。だって私のお父様だもの」
オメガはアレックスの傍に座り、きつく締め上げられる痛みに歪むその顔を撫でる。
「だから、私のお願い、聴いてくれますか?」
アレックスの耳に口を寄せて言う。返答代わりに首を振ると、耳にぞっとするような感触が伝わる。
「聴いてくれないのですか。そんな悪い耳にはお仕置きです」
さっきの感触が、もう一度耳に伝わる。オメガが耳を舐めているのだ。その感触と、絶え間なく聞こえてくる水音に耐え切れず、動かない我が身を必死でよじってオメガから逃れようとする。しかし、きつく締め上げる髪の毛が、それを許さない。
「逃げたいんですか? 逃げたいんですか?」
オメガの笑い声が響く。それは唐突に途切れた。
「パパを…いじめるな」
ホープがオメガを殴りつけたのだ。その手には錆びた鉄パイプがしっかりと握られている。それなのに、オメガはまったく痛みを感じていないようだ。
「悪い妹ね。お姉ちゃんを殴るなんて」
オメガは振り向き、ホープのほうへと歩いていく。ホープはすっかり怖気づいて尻餅をついてしまう。
彼女を助けなければ。そう思って身をよじるが、どうにも動けそうにない。
この状況をどうにかできるのはファリしかいない。彼女と視線が合うと、ファリは頷き、オメガに向かってガラス片を投げた。投げナイフの要領で投げられたそのガラス片は、オメガの首筋に突き刺さる。
「痛っ……」
オメガが初めて苦悶の声を上げる。首に刺さったままのガラス片を、触り心地を確かめるように撫でつけ、ホープの目の前にしゃがみ込む。
「これ、何かわかる?」
傷口に刺さったガラス片をホープに見せつける。ホープ自身は、それが何なのかわかっていないようで、首に顔を近づけ、ガラス片をまじまじと見つめていた。
「これはガラスって言うのよ。割れやすいから取り扱い注意。私の首に刺さってるのは触っちゃだめだよ。おててが切れて、痛い痛いってなっちゃうからね」
そう言いながら、自分の首に刺さったガラス片を引き抜く。それを見てホープは首をかしげる。「触ってはいけない」と言われたのに、そう言った本人が、目の前で矛盾した行為を行っているからだ。
だから、頭に浮かんだ疑問をそのままぶつける。
「さわったらだめなんでしょ。じゃあなんでおねえちゃんは、ガラスをさわるの?」
「うん? 何故でしょう?」
オメガの口角が吊り上がる。それを見たホープは恐怖に顔をひきつらせ、ファリのもとへ駆け寄る。
「たすけてママ! おねえちゃんこわいよ!」
アレックスの身体に絡みついていた髪をほどいていたファリは、突然抱き着いてきたホープに反応できず、地面に倒れる。そして、その彼女の顔があった所を、ガラス片が飛んで行った。
ガラスは壁に直撃し、音を立てて砕け散る。
「あ、危なかった……」
それを見て、ファリが安堵の声を出す。しかし、それとは裏腹に、オメガの方からは、尋常ではないほどの殺気を感じた。
「どうして……」
静かに言葉を漏らすオメガに、アレックスは直感で危険を感じ取った。ファリとホープを物陰に押し込み、アベリィのもとに駆け寄る。残り数歩というところで、アベリィが目を覚まし、こちらを見た。
「アレックス……?」
「頭を下げろぉ!!!」
そう叫び、アベリィの頭部を抱くようにして守る。次の瞬間、右腕に激痛が走る。見ると、血で真っ紅に染まったオメガの髪の毛が、自身の腕を突き抜け、まるで触手のように蠢いているのが見えた。
「ホープまで私から離れるというの? どうして? 私たちは家族なのに……」
両手で自分の顔を覆い、わなわなと震えるオメガ。その間に、アレックスは、自身の腕から顔を覗かせている髪を引き抜こうとする。しかし髪は、そこに固定されてしまったかのように抜けず、返って傷口が広がるだけだった。それに伴って失血が激しくなり、だんだん意識が遠のいていく。
その間も、オメガは自問を繰り返しているようだった。こちらを見て何か言っている。
「手伝うわ!」
動かないオメガを見てチャンスと思ったのか、ファリがこちらに駆け寄ってくる。だが、それは藪蛇だった。
「来るな!」
こちらに来ないように言うが、遅かった。アレックスの傷口に刺さっていた髪の毛が、ファリの顔に巻き付く。このまま窒息させるつもりに違いない。
「お父様も、ホープも、その女に騙されてるの。そうに違いないわ。だから、貴女が消えれば、二人とも私を見てくれますよね?」
ファリのくぐもった悲鳴が聞こえてくる。すぐそばにいるのに何もできない無力感に苛まれ、手を伸ばす。地面に倒れたファリと手が触れ合うと、彼女のほうから手を握ってくる。助けを求める意思が、はっきりと伝わってくる。




