素敵なことば
佐藤さんにアドレスを手渡したその日。授業も終わり、皆が帰り支度を始めている中で、私は携帯を握り締めている。薄ピンク色の携帯。本当は電源を切らなくちゃいけないのに、電源も切らずに朝からずっとこうして見つめていた。結局、一度も鳴ることはなかったけれど。
ケーキは食べてもらえただろうか。もしかして、別れた後捨てられた?そんなことを考えると涙が出そうになる。ぐっと唇を噛んで、ぱかりと携帯を開いた。
新着メールや不在着信はない。メールの画面を呼び出して、新着メールの問い合わせをしてみる。これも、朝から何回もやっているけれど。画面が映したのは、新着メールはありませんという一文。思わず溜息が出る。
「千鶴ー帰らないのー?」
美結が机のそばにしゃがみこみ、私の顔をのぞきこんだ。慌てて平気な顔を作り、帰るよ、とだけ返した。余計に喋ると泣いてしまいそうだから。美結は優しい子だ。私の様子がおかしいのもきっとわかっているだろう。
先に帰った美結に手を振って、もう一度携帯を開く。四時五十分。次の電車は五時過ぎか。
歩いてる途中、滅多にしないイヤホンをして、携帯に繋いだ。着信音をちゃんと聞き取れるように。こんなことしたって、来なかったら意味がないのに…わかってて、やっている。佐藤さんはまだ仕事中だろうか。
駅のホームで電車を待つ間もそわそわしてしまう。三分おきに携帯を開いたりして…こんな風に携帯を触り続けることなんてなかった。ぱかりと開いて、キーパッドに触る。
時代はスマートフォンだけど、私はテンキーのある携帯の方がなんとなく好きだ。つるりとした表面を撫でて、メールの画面をまた呼び出す。母に今から帰る、という旨を伝えるメールを送って、新着メールの問い合わせをしてみた。
「…はあ」
新着メールはありません。もう何度も見た一文だ。ぱたんと携帯を閉じて、ジャンスカのポケットに突っ込む。
完全に八つ当たりだ。連絡を待っていらいらするくらいなら、最初から佐藤さんにアドレスを聞けばよかったのだ。わかってて、遠まわしな方法しか取れない私は、臆病で、狡い。
電車に乗る。長椅子に座って、イヤホンを外した。どうせ来ないのならしていたって意味がない。そっと目を閉じる。着信ランプのついていない携帯なんて、見たくない。
父の車に乗ってまた目を閉じる。
ただいまを言うのも億劫で、鞄を足元に投げた。
「ご機嫌ななめだな」
父が苦笑して、私の頭を撫でた。ごめんね、とだけ返してそっと目を開ける。外は夕焼けで真っ赤に染まっていて、目に痛い。もう、春が来る。高校に入って初めての春休みも近い。
夕飯を食べている間も、お風呂に入っている間も、そわそわいらいらしてしまって休むどころのはなしじゃなかった。髪もよく乾かさないまま、タオルを被って二階へ駆け上がる。部屋に入り、充電器を挿した携帯を手にとった。着信ランプは光っていない。思わずむくれてしまう。携帯をベッドへ投げて、髪を乾かしに一階へ戻った。ドライヤーは一階にしかない。
十時を過ぎても携帯は一向に鳴らなくて、もう諦めようとベッドに入った。電気を消して、目覚まし時計をセットする。枕に頭をつけると、なんだか涙腺が緩んでしまった。ぽろりと涙が溢れる。拭っても拭っても涙は止まらなくて、こんなことで泣いている自分に嫌気が差す。ああもう、アドレスなんか渡すんじゃなかった。
布団を頭からかぶってぎゅっと目を閉じた。携帯は目の前にある。諦めようとしているのに、まだどこかで期待している。このまま期待していても、どうせ来ないのに。すんと鼻を鳴らして、目尻に残った涙を拭った。
うつらうつらと眠りに入りかかった頃、小さな振動で目が覚めた。携帯のバイブレーション。慌てて開くと、新着メールが一件。収まったはずの涙がまた溢れる。登録されていないアドレスからのメールが、こんなに嬉しいなんて。
件名:佐藤です
本文:登録だけ、お願いします。返信はしなくていいよ
どういうことだろう。登録、だけ?首を傾げながら登録を済ませる。すると、またバイブレーション。登録されていない電話番号からの着信。すぐに通話ボタンを押して、耳に押し当てた。
『もしもし』
「あ、もしもし…!」
声が震える。さっきまで泣いていたから若干鼻声だ。恥ずかしい。電話の向こうで佐藤さんがくすくす笑っている。
『起こしちゃったかな。ごめんね』
「あ、いえ、そんなことないです」
『そっか。よかった』
いつもよりずっと静かな環境で、いつもよりずっと声が近い。胸が熱い。心音が高くなる。
『声、聴きたくなって。電話しちゃった』
ああ、もう。どうしてこの人はこんなに素敵なことをさらりと言うんだろう!
今日も今日とて、佐藤さんを好きになる。