幸福が訪れる
暖かいベッドの中、耳元に置いた目覚まし時計で目を覚ます。
無機質な音が耳にこびりつくのが嫌で、私はベッドからずるずると離れた。冬の寒い空気が、スリッパを履いていない裸足に突き刺さる。きゅっと指先を丸めて、スリッパを履いた。
ついでにヒーターのスイッチを入れて、部屋を温めておく。六時半。いつも通り。
廊下は自室よりずっと寒くて、吐く息すら白くなっている。
ダイニングはきっと温まっているはずだ。白い息を吐きながら、階段を降りた。ぱたぱたという足音と、階段の軋む音だけ響いている。
朝のこの空気が好きだ。冬は寒くて仕方ないけれど、なんだか引き締まる感じがして、1日のやる気が出る。
「おはよう」
シンクで洗い物をしている母に声をかける。母は首だけで軽く振り返り、おはようと返した。朝食は用意してある。四人がけテーブルの、左端。
引き戸から箸を取り出して、ついでに食器棚からグラスを取り出す。朝は毎日、牛乳を飲む。日本人は牛乳でお腹を下す人が多いらしい。そんな体質じゃなくてよかった。
今日のメニューは、トーストに、アスパラをベーコンで巻いたもの。トーストには、バターをつけて、ハムを乗せて食べるのが最近のお気に入りだ。…朝からお肉ばっかり食べてるけれど、あんまり気にしないようにしよう。
ニュースを見ながらトーストを囓る。さくさくとした歯ごたえに、バターの風味とハムの味がひきたつ。おいしい。
食べ終わったのは六時四十五分。いつもどおり。
2階へ駆け足で上がって、ヒーターの前に座り込む。
十五分弱では部屋もそんなに温まってないから、結局肌寒い思いをしながら着替えをしなくてはならない。
ブラウスのボタンをとめて、ジャンパースカートを履く。
膝丈のスカートは、最初は少し長く感じたけれどもう慣れた。そのままボレロを羽織ろうとして、ふと棚においてあるものが目に留まる。
棚の端の方にちんまりと佇んでいる小瓶。そっと手に取ると、ふんわりと爽やかな香り。母からもらった香水。ラベルには、「鈴蘭の香り」と書かれている。なんとなく、久しぶりにつけてみようと思った。
太ももに内側にひと吹き。
爽やかな香りはすぐに消えていってしまうから、手首にもつけて擦る。新緑の柔らかく爽やかな香りに包まれる。その中に、ほんのりと甘いユリのような控えめな香り。深呼吸を一回して、ボレロを羽織った。
鞄を持って、ローファーをきちんと履く。
こつこつと2回床に打ち付けて、踵まで履いてあることを確認する。…よし。七時十五分。いつもどおり。
父の車に乗って、駅に向かった。父は寡黙だけれど、ちゃんといってらっしゃいと言ってくれる。それが嬉しくて、私は笑顔で行ってきますと返す。
七時三十二分の電車の先頭車両。
佐藤さんといつも会える場所。半自動のドアを目一杯引っ張って開ける。飛び乗って、つい佐藤さんの姿を探す。…香水、気づいてくれるかな。つけすぎちゃったかな。スカートはシワになってないかな。寝癖はついてないかな。
「千鶴ちゃん」
「あっ、おはようございますっ」
ぼんやりと心配事を考えていたら、いつの間にか佐藤さんが目の前にいた。
今日は壁に寄りかかっているから、佐藤さんに掴まる必要はないな、なんて考えながら佐藤さんのネクタイを見る。群青の無地のネクタイ。奥さんがえらんだのかな、なんて考えて、なんだかもやっとした。いけない。朝からこんなことでは。
「千鶴ちゃん、いい匂いするね。香水?」
少し顔を近づけて、佐藤さんが言った。すん、と鼻を鳴らして、私の香りを嗅いでいる。認識した途端カッと顔が熱くなる。二の句も告げずに、こくんと頷いた。
「ふふ、やっぱり。シャンプーじゃないなって、思ったからさ」
そう言って彼はするりと私の髪に触れた。ひと房取って、そのまま落とす。頬に触れるか触れないかの体温が、くすぐったくて、なんだか気恥しい。ふるりと体を震わせて、佐藤さんを見上げた。
目が合うと、彼は眉を下げてくすぐったそうに笑った。