文庫本とボックス席
今日は土曜日だけれど、先生に聞きたいことがあって、平日と同じように電車に乗った。…先生に質問というのは建前で、実は忘れ物を取りに行くだけだったりする。
電車の中は平日に比べると格段に広々としていて、珍しいこともあるものだと少し嬉しくなる。そして、電車の中にいるスーツを着た人達に親近感を覚えた。折角の土曜日なのに、お仕事お疲れ様です、と心の中で思う。
本当に珍しいことに、ボックス席が空いていた。ここのところボックス席に座れたことはなかったので、少しドキドキしながら腰を下ろした。なんてことはない、普通の座席だけれど、この四人がけのスペースを一人で使っている。なんだか贅沢な感じだ。これは土曜日の特権だろう。
学校指定の鞄から文庫本と眼鏡を取り出す。別にそこまで目が悪いわけではないけれど、時折ふりがなが読めない時があるから本を読むときは眼鏡をかける。本当はあんまり良くないらしいけど。
中高生にヒットした恋愛物。友人に借りたものだったけれど、ここまでたいした感想はもっていなかった。興味がなかったから、というのもある。
しおりはほとんど終わりの部分に挟まれている。今から読み始めれば、きっと降りる前には読み終わることができる。
私はそこまで没頭して読み耽るタイプではない。本を読んでいても、電車がどのあたりで止まっているのかとか、誰かが近くに来たとかはちゃんと把握している。
背中を丸めて本を読む。あまり、褒められた姿勢ではない。
視界の端に、だれかが向かい側に座ったのが見えた。ボックス席だし、1人増えたところで窮屈になるわけでもない。
気にせず読み進めた。
少し背筋が痛くなってきた。
本を読んだまま、ぐっと背中をそらす。じんわりと痛みが分散していき、重い疲れが肩にのしかかる。
どうやら思っていたより、この姿勢は体に負担をかけているようだ。でも、あと数ページだし…姿勢を変えて読まないといけないほど多くはない。むしろ少ないくらいだ。
力を抜くと同じ姿勢に戻ってしまうし、やっぱりこのままでいいや。残りのページをぺらりとめくった。
車内アナウンスが、到着間近の駅の名前を告げる。それと同時に、私は本を閉じた。降りる駅までまだ二駅ある。感想は特にない。文体が苦手とか、話が面白くないとか、そういう問題じゃない。そもそもの興味が無かった。
本を鞄の中に仕舞う。月曜日に友人に返そう。無難な感想を考えておこう。薄っぺらい文庫本一冊で、変な空気になるのは嫌だから。
「ふう」
一息ついて前を向く。そういえば、誰か向かい側に座っていたのだった。
「読み終わったかい」
うそ、だ。口がぽかんと開くのをぐっと耐える。目が丸くなるのは抑えられなかったけれど。そこにいたのは、この間私が掴まる柱になってくれた男の人だった。途端に顔が熱くなるのを感じる。…ああ、なんてこと!猫背になっていたのを見られてしまった。少し、いや、結構恥ずかしい。
「随分没頭してたみたいだったから」
話しかけづらかった。低くて渋くて、聞いていて落ち着くような声で彼は言った。
ああ、ああ、私のバカ。あの時ちらりとでも確認しておけばよかったのに。頬から耳、首まで熱い。きっと私は茹でだこのようになってるはずだ。その証拠に、向かい側の彼はくすくすと笑っている。
「これ…友達に、借りてて」
「ああ、それで早く読もうとしてたんだ」
もごもごと言い訳じみた言葉をこぼして、顔を見られないように俯く。伸ばしている黒髪がカーテンのように私の顔を取り囲む。
「さっきの、どんな話なの?」
さっきの、と言いながら彼は私の鞄をとんとんと指で叩く。その仕草はごく自然で、私が顔を真っ赤にしていることなど露ほども知らないみたいだ。彼の大人な対応がありがたいような、恥ずかしいような気分で、私は口を開いた。
「女子校に通う女の子が、その学校の先生に恋する話、です」
ありきたりな物語だ。さらに言えば共感もしないしときめきもしない。つまらなかった、とは言わないが、読み応えがなかったのは事実だ。
「最近の子だけではなく、女性全般の好みを捉えた内容だねえ。先生っていうのは、包容力のあるものだからね」
彼は口元に手を当て、くつくつと笑った。そこでするりと足を組み換える。スーツの衣擦れの音が、やけに大きく聞こえた。電車が止まる。ぞろぞろと車両から人が降りていく。
「そういえば、名前、聞いてなかったかな」
人の居なくなった車両はいやに静かで、彼の柔らかい声が心地よく響く。
「こうしてもう一度会えたのも、何かの縁だろう。名前、教えてくれるかな」
「あ、えっと…結城、千鶴です」
「千鶴ちゃんか。私は佐藤隆幸。好きに呼んでくれていいよ」
何かトラブルがあったのか、車内アナウンスが電車の遅延を知らせている。少しくらい、遅れても遅刻にはならない。彼……佐藤さんも気にしてないみたいだ。
まだ少しだけ、おしゃべりしてても大丈夫。