雨の降る部屋
水色のワンピースに長めの紺のカーディガン。髪の毛は普段と同じように降ろしたままだ。
ヘアピンをつけるか、カチューシャをつけるか悩んだ。パステルカラーのカチューシャか、花の飾りがついたヘアピンか。
悩みに悩んで、カチューシャをつけた。鏡をのぞき込んで、なんとなくくすぐったい気持ちになる。
本当に美結の家に泊まるのだったら、きっとカチューシャなんてしなかっただろう。
小さめの旅行かばんに下着や着替え、お泊りに必要な歯ブラシや洗顔用のキットを放り込む。
制服のポケットにいれたままだったリップを取り出して、念入りに唇に塗った。
準備は万端だ。
私の家の最寄り駅で待ち合わせということで、そこまで歩くことにした。自転車で行ってもよかったけれど、なんとなく一日駅に放っておくのは忍びなかった。
とことこといつも自転車で走り抜ける道を歩く。普段は見ていなかった景色が、季節の変化を教えてくれる。
もう春だ。あと一週間もすれば春休みも来る。長い休みは嬉しいけれど、電車で佐藤さんに会えないからちょっとだけ嬉しくない。複雑な気分だ。
ぷちりと靴の下でなにかが弾けた。虫でも踏んでしまったのだろうか。
下を見ると、真っ赤に熟れた木苺。こんなところに自生してるなんて…。酸っぱくてつんとした匂いが鼻をつく。春っぽいな、なんて思ってしまう。
駅に着くと、見覚えのある白い車がもう停まっていた。
慌てて駆け寄って、運転席の窓を叩く。窓ガラス越しに佐藤さんと目が合って、胸がきゅんと鳴く。
助手席を指さされて、逸る気持ちを抑えて回り込んだ。
「おはよう」
「おはようござい、ま」
言い切る前に抱き寄せられた。末尾の“す”が言えずに、佐藤さんの胸の中で消化不良の吐息になって出ていく。
ちゅ、と額に柔らかい感触がして、頬が熱くなる。それと同時に、ほんの少しだけ、落胆した。
体が離されると佐藤さんはエンジンを始動させ、前と同じようにシフトレバーをこつんこつんと動かした。
「本当に私の家でいいのかい?」
「だって…土曜日だし、どこも混んでると思って」
それもそうか、と佐藤さんは苦笑して、小気味良いハンドルさばきで車を走らせる。
ほどなくして、マンションに着いた。
途端に、自分が何をしようとしているのか意識して体が強ばる。手のひらにじっとりと汗をかいている。
異性の家に、泊まる。しかも、自分よりふた周りは年上の男性の家に。
助手席のドアが開かれた。覚悟を決めよう。短く息をついて外に出た。爽やかな風に髪がふわりとなびく。
「今日も可愛いね。いつも可愛いけれど、今日は一段と」
私のためかな。
いつものように彼は私の手を取って、そんなことを口にした。
気の利いた返事なんて返せるわけもなく、口の中でもごもごとありがとうございますと言うかわりに手を強く握った。あったかくて、乾いた手のひらが私の手を握り返す。また、胸がきゅんとする。
ぽつぽつと、雨が降り始めている。
リビングに通される。前と同じように、真っ白な部屋に落ち着かなくなる。苦手なわけではないけれど、ここに今まで他の家族が住んでいたのだと思うといたたまれない。
私が引き裂いたわけじゃないとわかっていても、居心地が悪いのは確かだ。
「もっと肩の力を抜いた方がいいよ」
佐藤さんがココアを持ってきてくれる。前と同じ、小さなマシュマロが浮いたあったかいココア。一口飲んで、深く息を吐いた。くったりと体から力が抜けていく。
「佐藤さん、あの」
言いかけた言葉は彼の人差し指に制された。唇に触れる関節はごつごつとしていて、男の人なんだと改めて認識する。
「佐藤さん、じゃなくて、名前で呼んで」
抱き寄せられ耳元で囁かれると、なんだかお腹の下の辺りがふわふわする。吐息が耳に触れて、ぴくんと体が跳ねた。
「隆幸、さん」
「なあに千鶴ちゃん」
掠れた囁き声が色っぽい。男の人って、みんなこんな色気が出せるのだろうか。体を離して、隆幸さんを見上げる。
頬に添えられた手が、するすると首筋、肩へと降りていく。右手が持ち上げられて、ちゅ、と手の甲にキスが落ちた。
違う、そうじゃなくて…。
「隆幸さん、ねえ」
キスして。
小さな小さな声が漏れた。きっと、今の私は甘えた表情をしているのだろう。隆幸さんの服をきゅっと掴んで、唇を近づける。
掴んだ右手が離された。驚いて、目を開く。
「千鶴ちゃん、それはできない。ごめんね」
雨が窓を叩く音が響いている。強い雨音は、私を拒絶しているようだった。




