二センチ未満
反対方向へ向かう電車は空いていて、同じ朝なのにこんなに違うのかと驚いてしまう。
それは佐藤さんも同じみたいで、下りの電車は初めて乗ったな、なんて笑っていた。
いつかの時みたいに、ボックス席に腰掛ける。
手は、繋がれたままだ。
佐藤さんはなんだか落ち着かない様子で窓の外を見ている。
つられてこちらまでドギマギしてしまって、繋いだ手を解いてしまった。
そっと膝の上に重ねて乗せると、ちらりと佐藤さんがこちらを見た。流し目って言うのかな。どくんと心臓が高鳴る。
「目、腫れちゃったなあ」
そう言って佐藤さんは苦笑した。
自分ではどんな顔なのかわからないけど、多分酷いんだろう。確かに、なんだか瞼が腫れぼったい。
ぱちぱちと瞬きをすると、佐藤さんが手を伸ばして私の髪に触れた。するりと一房取って、すぐに落とす。
細い私の黒髪が、宙を舞って重力に従って落ちた。
「落ち着いたかい」
優しく問いかける声にぐっと声が詰まる。
沢山恥ずかしいところを見られてしまった。剥き出しになった太ももとか、下着とか、泣き顔とか。今になって顔が熱くなる。ああ、なんてこと。
車内アナウンスが私の家の最寄駅に着いたことを知らせた。佐藤さんは私が出やすいように足を退けてくれる。
だけど、動く気はなかった。
「佐藤さん、私、帰りたくないです」
思っていたより声は震えていなくて、小さく呟いたつもりが強い発言となってしまった。
今ひとりになったら、きっと私はまた泣き出してしまうだろう。そんな気がした。
佐藤さんは少し目を見開いて、そしてすぐに細める。咎めるような視線に、胃の辺りがきゅっと苦しくなる。
「…千鶴ちゃん。ダメだろうそんなこと言ったら」
静かな声に、胸をえぐられるようだ。
ぎゅっと眉根を寄せて俯く。膝の上に置いた手を、白くなるくらい握り締めた。
どうしよう、また泣きそうだ。佐藤さんと出会ってから私は酷く泣き虫になってしまった。
肩に優しく手をかけられて、少しだけ力が抜ける。それでも前を向くことは出来なくて、俯いたままで、彼の次の言葉を待つ。
「…本当に、帰さないかもしれないだろう。」
私は良い大人なんかじゃあないんだよ?
左の耳にかかる息と甘い囁きに、ぞくぞくっと身体の芯が痺れた。そっと顔を上げると、佐藤さんの顔がすぐ近くにある。きっと、二センチの距離もない。
きゅっと目を閉じた。額に、柔らかくて温かい何かが触れた。
電車が動き出す。
私達の関係も、少しずつ動き出している。そんな気がした。




