AM7:32、先頭車両にて。
その人と話したのは全くの偶然だった。
線路からの振動をもろに受ける、人口密度は毎日100%越えの電車の中。
今日はいつもよりずっと揺れが酷くて、つり革を見上げて溜息をつく。誰かしらの手がつり革を掴んでいる。私の入る隙間はなかった。
しょうがなしに、銀色に鈍く光る柱を掴む。柱には私と同じようにつり革を掴めなかった人達が手を伸ばしていて、妙に暖かい。
得体のしれない温度が気持ち悪くて私は柱から手を放した。
途端に足元が不安になる。ローファーがふらふらと前後左右に場所を変え、踏ん張れる位置を探している。
それでも動けるスペースはほとんどなくて、私はやっぱり柱に手を伸ばそうとする。そこで、あの妙な体温を思い出し顔をしかめるのだ。無限ループ。そんな言葉が頭をよぎる。
また、踏ん張れる位置を探そうと後ろに足を引いた。
「あっ」
私のかかと、ローファーの少し分厚くなった部分が、誰かの革靴にぶつかった
。振り返って謝ろうとした瞬間に大きく車体が揺れる。当然、不安定な格好をしていた私は後ろの人に体当たりすることになる。
「す、すみません!」
「ああ、いや。大丈夫だよ」
落ち着いた大人の声だ。低くて、渋くて、聞いてて落ち着くような優しい声。見上げれば、優しい眼差しをこちらに向けた男の人と目が合った。
四十代くらいの、細い目をした眼鏡の人。カッと顔が熱くなる。慌てて俯く。俯いて目に入ったのは彼のスーツを掴んでいる私の両手だった。このままでは皺を作ってしまう。
揺れが落ち着いたところで体を離す。すると、今度は彼の腕に引き戻されてしまう。
「あ、え、あの」
「今日は揺れが酷いから。掴まるところがないんだろう?」
「え、いや、そんな」
「いいから掴まってなさい」
有無をいわさず引き寄せられる。今度は肩を優しく抱き寄せられていて、制服の生地越しに体温を感じる。あの得体の知れない体温じゃない、ちゃんと人の温もりが感じられる。
安心すると同時に、少しどきどきした。変、だ。学校の先生に触られても、こんなことはなかったのに。
知らない人に触れられているのに、どうしてこんなに安心してしまうのだろう。
今日は確かに揺れが酷くて、何度も彼に寄りかかるような格好になってしまった。その度に私は顔を熱くして彼に謝った。けれど彼は、眉を下げてくすぐったそうに笑うのだ。その笑顔が見ていられなくて、私はまた視線を下げる。
また、無限ループだ。
「君、次の駅で降りるでしょ」
彼がドアの窓を見ながら言った。
「その制服、有名だもんね」
ちらりと私の方を見る。肩に手はかかったままだ。確かに、私の通う高校の制服は珍しいタイプのものだった。いわゆるボレロと呼ばれるやつだ。茶色のジャンパースカートの上に、それより濃い茶色のボレロを羽織る。それが、中々に目立つのだ。
「私も、次の駅なんだよ」
「え、」
驚いて見上げると、悪戯が成功した子供のような、無邪気な笑顔と目が合う。また、耳が熱くなる。
「一緒に降りようか」
どうせだし、と言外についていることを忘れてはいけない。なのに、心音は高まるばかりだ。電車が減速している。どうか、この音が彼に伝わっていませんように。