表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

死ねばいいのに

作者: ノイジョン

 私の母はどこにでもいる普通の主婦である。

 一日中家事に追われながらも合間合間を見つけてはテレビを見ている、そんな人だ。一流大学を出たわけでもなければ仕事人間だったわけでもないためか、特に教育熱心ということもない。

 だから、物心がついてからこれまで、私は母に強く叱られたことがなかった。

 ただ一つのことを除いて。


 まだ小さかった頃、たしか小学校一年生の夏だった。

 ごく些細なことから近所の友達とけんかになった。そのとき母も一緒にいたのだが、彼女は特に気にした様子もなく、その子のお母さんと談笑していた。

 しかし、私がある言葉を発した瞬間、それまで微笑みさえ浮かべていた母の様子が一変した。左頬に走った鋭い痛みを今でも覚えている。私はわけがわからなくて泣きじゃくった。母に手をあげられたことはおろか、叱られた記憶もなかったのだから当然だ。

 母は私の頬を打った手を抑えながら言った。

「そんな汚い言葉、二度と使わないで」


 そのときは、その言葉を二度と使うまいと心に誓った。

 しかし、子供の決意などその場かぎりで、時の経過とともに風化していく。中学、高校と進むにつれ、私を取り巻く環境も、飛び交う言葉も変わっていく。

 友達もメディアも汚い言葉を平気で垂れ流す。そんな中で、どうして私だけが使わずにいられるだろうか。

 あの日友達に向けて放った言葉は、反抗期も手伝ってか、いつしか蛇口から垂れる水滴のようにこの口から漏れ出るようになっていた。


 初めて気がついたのは高校二年の春。その立てこもり犯は別れた妻に復縁を迫ったがにべもなく拒絶された。そのことに怒り、暴れていたところに警察が来たため、元妻を人質にした、ということらしかった。

 私はそれをテレビのニュースで見ていた。思春期特有の苛立ちをどこかにぶつけたかっただけなのかもしれない。小さく一言、

「こんなやつ、死ねばいいのに」

 そう呟いて、家を出た。弟は私の発した言葉に気づいていたようだが、あえて何か言うつもりもないようだった。下手に話題に上せば、私と母がまた口論を始めるとわかっているからだ。

 学校に着く頃には、朝のニュースのことなどすっかり忘れていた。だから、夕方家に帰るまでその犯人が死んだことを、私は知らなかった。


 それ自体には驚かなかった。立てこもり犯ならば、結末は捕まるか死ぬかしかまずありえない。問題はその死に方のほうにあった。

 自殺したのだ。突然、持っていた拳銃をくわえて引き金を引いたのである。それも包囲している警察のほうへ怒鳴っている最中に。人質にしていた元妻や娘を殺しての無理心中ならばまだわかるのだが、なんの脈絡もなく突然死を選んだことに奇妙な違和感を覚えた。

 なんとなく、胸の底に小さな気持ち悪さを感じた。まさか本当に死ぬなんて。そう思ったが、しかし、よくよく考えてみれば自分のせいでもなんでもないのだ。ただそう願ったことが、偶然そうなってしまっただけのこと。その最期が腑に落ちないが、あのような状況ならば、突然気が狂ったとしても何もおかしいことはない。


 その立てこもり事件が風化し、世間からも私の頭からもきれいに忘れ去られた頃。

 夏休みになって羽目を外しすぎた連中が停学処分になったことを、仲のいい友人からのメールで知った。どうやら彼女の友人もその羽目を外しすぎた中にいたらしい。

 馬鹿だなあ、と電話越しに二人で笑っていたのだが、数日後、教師たちで夜間パトロールなるものが結成され、繁華街への外出が著しく制限されることで、笑ってばかりもいられなくなった。それだけなら私には大して関係のないことだったが、夜のコンビニで偶然担任に出会ってしまったことで無関係を気取ってはいられなくなってしまったのだ。


「こんな時間に何をしているんだ」

 担任による尋問はそんな言葉から始まった。ただアイスを買いに来ただけだと何度説明しても帰らせてはくれなかった。担任教師は無駄に大きな声で、意味があるのかないのかもよくわからない質問を延々と続けた。冷凍ショーケースから選びとったアイスは、私の手の中ですっかり溶けてしまっていた。

 私は言い知れぬ惨めさを感じていた。溶けたアイスを持ったまま立ち去ることもできず、夜間のことで客が少ないとはいえ、見知らぬ他人の奇異の目にさらされ、延々とわけのわからない質問に生返事で答えながら立ち尽くすしかないことに。


 小一時間ほど経って、ようやく何か納得したのか担任は私を解放した。仕方なく買った、一時間前までアイスだった液体を、腹立ちまぎれに袋ごとゴミ箱に投げつけた。

「死ねばいいのに」

 我知らず、そんな言葉が口をついた。

 ――二学期が始まってからだった。担任が死んだことを知ったのは。

 自殺だったらしい。借りていたアパートの一室で首を吊ったのだという。聞けば、彼が死んだのはあの夜のことらしい。あの後、帰宅した彼は何を思って首を吊ったのだろう。まだ夏の気配が残っているというのに、薄ら寒いものを感じた。


 秋ごろだったか、駅前を一人で歩いていると、仲のいい友人を見かけた。彼女とは中学の頃知り合い、なにかと気が合って、学校ではいつも一緒に行動するような間柄になっていた。

 手を挙げて呼びかけようとしたとき、向こうから走ってくる人影に気がついて、私の挙動は止まった。

 彼はわかりやすい二枚目ではなかったが、はにかんだような笑顔が素敵だった。彼はその友人に駆け寄ると、少しだけ話してから、手と手を繋いで去って行った。付き合っているのだろう。証拠は何一つないが、確信めいたものがあった。

 胸の奥にどす黒いものが渦巻いた。彼は高校一年生の頃から私がずっと想いを寄せていた人なのだ。そのことを友人は知っているはずだった。知っていて奪ったのだ。そして、尚且つ、それを私には秘密にしていたのだ。

「……死ねばいいのに」

 許すことなどできなかった。

 ――その夜、彼女のお父さんからの電話で、彼女と彼が亡くなったことを知った。おじさんと話すのはほとんど初めてだった。おばさんは電話できるような状態ではないのだろう。胸がずきりと痛んだ気がした。気のせいだと思うことにした。彼らが死んだのは私のせいじゃない。


 どれほどの時間そうしていただろう。あれから幾日が経過しているのか、私は随分前に日数を数えることをやめていた。

 学校ではそろそろ午前の授業が終わる頃だろう。昼食を食べながら益体のない話をするために、それぞれがそれぞれに小さなグループを形成していく。

 脳裡に浮上した光景とは対照的に、部屋の中は私の心をそのまま映したかのように暗い。閉め切ったカーテンで隔てられたあちら側とこちら側は、まるで違う世界のように感じられた。

 それが私の心を少なからず救っていることを私は知っていた。あちらの世界で起きたことは、こちらの世界の私には一切関係がない。そう思い込むために、私はすべてのことを拒絶し、逃げ出したのだ。

 部屋の中でひたすらテレビとパソコンを眺め、食事とトイレの時にだけ一階のリビングに下りる。はじめの頃は父に叱られたが、何を言われようと一向に変わる様子がないことに諦めたのか、最近は何も言わなくなった。驚いたことに、私がこんな状態になっても母は何も言わず、叱ることもなければ怯えることもなかった。

 ただ毎朝、

「今日は、学校に行くの」

とだけ尋ねた。土日を除いて毎日。


 母と口論になった。クリスマスを前にして、テレビの向こうでは世間が一斉に浮き足立っていた。

 一階で食事をしながらテレビを見ていた私は、近頃すっかり口癖のようになっていたためか、無意識の内に例の言葉を口走っていたらしい。

 自分の非を認めたくない私は、母の言葉尻を捕らえては責め立て、果ては、朝から口やかましく言うな、とおよそ理屈に合わない抗議の声を上げた。

 頬に強い衝撃が走った。ぶたれたのだと気づくのにかなりの時間を要した。

 頭の中に膨れ上がり抑制の利かなくなった感情のままに、私の口唇は自分を生んだ母親に憎しみの言葉を叩き付けていた。

 母はもう一度、私の頬を強く打った。

 私はそれが痛みなのかなんなのかわからないまま、言いようもない悔しさに支配され、気がつけば自室の扉に鍵を掛けていた。

 部屋の中の暗闇が、私の心を優しく包む。木目調の薄い扉はこちらの世界とあちらの世界をくっきりと隔てた。

 すぐには落ち着かない気持ちを、母への呪詛を呟くことでなんとか落ち着けた。


 怒りと憎しみが冷めてくるにつれ、徐々に恐怖が込み上げてくる。私は取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。

 テレビの向こうの立てこもり犯。彼が死んだのは私のせいじゃない。

 コンビニで尋問してきた担任の先生。彼が死んだのは私のせいじゃない。

 友人と好きだった彼。彼らが死んだのは私のせいじゃない。

 けれど、どこかで感じていた。彼らが死んだのは私がそう願ったからではないか。それも簡単に虫を殺そうとするよりも弱い意志で。ただ一言、死ねばいい、と呟くことで。

 もちろん、そんなことで人の命が奪われるはずがない。しかし、もしも本当にそうだとしたら――死ねばいい、と言葉を発するだけで、人が殺せてしまうのだとしたら。

 私は自室を飛び出した。一階に下りて家中をくまなく探すが、母親の姿はどこにもない。

 何やら外が騒がしい。嫌な予感は一秒ごとに膨らんでいく。

 私は再び二階に上がると、閉め切った自室の窓を何か月かぶりに勢いよく開いた。私の部屋はちょうど玄関の上にあり、そこからは通りが一望できる。

 家の前に人だかりができていた。救急車は到着したばかりのようで、救急隊員が声をかけながら人の塊に割って入る。隣の家の庭木や塀の陰に入って見えなくなった救急隊員たちが、しばらくして担架に乗せて運んできたのは、シルエットから女性のようだった。ついさっきまで白かったTシャツは、母の流した血で真っ赤に染まっていた。


 俯いたまま一言も喋らない私に、父と弟は懸命に励ましの言葉を掛けている。それは、私に向けられているようでいて、実のところ、彼ら自身に向けた言葉でもあるように思えた。母を、妻を、突然亡くした傷は相当なものだろう。

 しかし、私は彼らの心の傷を慮ったりできる精神状態になかった。

 私は、自分の母親を、殺してしまったかもしれないのだ。

 ――いつの間にか、母親の葬儀の準備が始まっていた。私にはすでに時間の感覚がなくなっていた。悪い夢でも見ている気分、とよく言うが、まさしくそういう心境だった。

 父に、気分が悪いから自室に戻ることを伝えると、あっさりと了解を得られた。父の目には、母親の死のショックで落ち込んでいるようにしか見えないだろう。

 自室の暗闇は、もはや私を歓迎してはくれなかった。優しく包み込んでくれていたはずの薄闇は、今はどこまでも冷たく感じられた。

 私は部屋の隅に膝を抱えて座ると、思いつく限りの人の顔と名前を思い浮かべながら彼らの死を願う言葉を吐いた。どうしてそうしたのか、自分でもわからない。ただ、そうすることで母が死んだのは自分のせいではないことの証明にしたかったのかもしれない。

 けれど、それを確かめることはできなかった。私にはその勇気がなかったのだ。何度となく扉を開けようとしたが、ついにドアノブを捻ることはなかった。その先で、もし父や弟が死んでいたとしたら、それは間違いなく自分がしたことに他ならず、母を殺したのも私なのだという何よりの証明になってしまうからだ。

 私は膝を抱えて途方にくれた。結局のところ、私は自分一人しかいないこちらの世界に閉じこもることしかできない人間になってしまったのだ。誰かが連れ出してくれるのを待ったが、扉の向こうに人の気配が近づくことはなかった。

 なぜ母はそのことだけをあれ程強く私に言って聞かせたのだろう。いや、それよりも、なぜ私は母の言うことを聞かずにその言葉を使い続けたのだろう。すべては後の祭り。過ぎ去った時間も、人も、決して戻らない。

 ぼんやりとした頭で、私は自分のしでかしたことを呪い、自分の罪を呪い、自分の命を呪い、存在を呪った。


「私なんか……死ねばいいのに」




 精一杯ホラーのつもりで書いたのですが、いかがだったでしょうか。

 当初予定していたものが間に合いそうになかったので、急遽こちらになりました。言い方は悪いですが、没原稿が日の目を見た、といったところです。

 最期まで読んでいただき、誠にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 秀逸。 母親が怒ったのは何故なのか。 娘の言葉に力があるのを知っていたのか。 母親もそうなのか。 血筋なのか。 ただ単に、重い言葉だからか。 謎は残りますが、その後味の悪さが薄気味悪くて…
[良い点] かわいそう 文章が美しい [気になる点] こわくない
[良い点] 心理描写が理解しやすい。よく書かれていると思います。 入り込みやすく、 前半にジワジワと恐怖が迫ってくる感じがあります。 [気になる点] 前半の心理描写が良すぎたからだと思いますが、 話…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ