プロローグ
さり気ない日常の中でふと垣間見せる幸せと呼べる時間……。
それは人によって大きく異なるが、
誰しもがその時間を大切に思うと共に手放したくないと願う。
これはみっともなく情けないながらも、
己に課せられた宿命に抗い、大切なものを守るために足掻き続ける少年の物語。
神矢当輝(かみやとうき)は一人頬杖をついて教室の窓から見える空を眺めていた。
当輝は周りから見れば美男子と呼ばれる類に位置する人間だろう。
整った中性的な顔立ちは多くの女子達を虜にしていたし、東洋人特有の艶のある黒髪は無造作に切り揃えられ何処か男らしさも感じさせる。
性格は大人しいものの決して意志が弱いわけでもなく、人当たりも良かった。
そんな当輝が物憂げに空を眺めているのだから、クラスメイトも何処か落ち着かない。
心配して声を掛ける者に対して当輝は笑顔で対応するものの、すぐに元の状態に戻ってしまい窓の外を眺め続ける。
その内にクラスメイト達もそういう日もあるだろうと、当輝に声を掛けなくなった。
「……」
当輝の視線の先には雲一つない快晴が広がっている。
しかし時として青空は却って人の心を曇らせることもあるだろう。
当輝は今まさにその状態に陥っていた。
痛みを発する体の節々に当輝が目をやると、昨日の稽古が鮮明に思い起こされる。
当輝は神明円心流(しんめいえんしんりゅう)と呼ばれる古武術を受け継ぐ家系である神矢家の跡取りだ。
しかしそうは言っても古武術自体を神矢家が生業としているわけではなく、実際に当輝の父も普段は一般のサラリーマンとして働いている。
そして当輝はハッキリ言ってその円心流があまり好きではない。
円心流は円の動きを基調とする対人戦闘用の技を脈々と受け継いでいる。
だが当輝自身があまり人との争いを好まない性格だった。
人を傷つける技術を持っているというのは当輝にとってあまり気分のいいものではなく、それに加えて円心流を護身術として外で使うことすら許されていない。
別に稽古がきつくて嫌だという訳ではない。
ただ円心流の存在そのものに当輝は意味を見出せずにいたのだ。
「……帰ろうかな」
気付くと教室には誰も居ない。
教室の壁に掛けられた時計を見ると帰りのホームルームから30分も過ぎ去っていた。
そして当輝はある重大な事態に気が付く。
「拙い……」
ポケットから携帯を取り出すと同じ人物からの着信が数件ある。
同じ高校に通う幼馴染である御堂美来(みどうみらい)からだった。
今日は一緒に帰って美来の買い物に付き合う約束をしていたのだ。
当輝は携帯をポケットにしまい直すと急いで帰り支度を整え、待ち合わせ場所である校門へと急ぐのだった。
当輝が急いで校門に向かうと、美来ら不機嫌そうに当輝の顔を見つめてくる。
当輝達が通う学校でも美来は五本の指に入る美少女だ。
普段は当輝と同じ黒髪を後ろで纏めてポニーテールにしている。
しかし可愛らしい顔からは想像がつかない程勝気な性格で、大人しい当輝とはある意味バランスの取れたコンビと言えるかもしれない。
そんな当輝と美来はまさに生まれてからの付き合いだった。
同じ日に同じ病院で生まれ、実家も隣同士という絵に描いたような幼馴染の関係……。
だからこそ当輝には美来の機嫌がいつになく悪いことが分かる。
この危機をどうやって乗り越えるか当輝は必死に考えを張り巡らせるが、残念ながら良いアイディアが浮かぶことはなかった。
「……随分と待たせてくれたわね」
「ごめんなさい」
「折角久しぶりに二人きりで出掛けるっていうのに……」
「え?」
どうやら美来は一緒に出掛けるのを思っていたよりも楽しみにしていたらしく、当輝は余計に罰が悪くなる。
そこで何らかしらの埋め合わせをしなければと考えた当輝はある提案をした。
「それじゃあ再来週の期末テストが終わったらさ、何処か遊びに行こうよ。 出来る範囲でなら僕が奢るからさ」
すると当輝の提案を聞いた途端に美来の顔はみるみる明るくなる。
思った以上に効果があったことに当輝は驚くが、残念ながらその理由までは分からない。
何故か頬を染めている美来を当輝が訝しげに見ていると、美来は何処か誤魔化す様子で咳払いをして言った。
「し、仕方ないわね。 当輝がそこまで言うなら一緒に出掛けてあげるわよ」
どういう訳か上から目線の美来に当輝は苦笑いを浮かべながらも、二人は並んで歩き出す。
そして美来の荷物持ちとしての責務を果たした当輝は、すっかり暗くなった夜道を美来と並んで家に向かって帰るのだった。
校門で待ち合わせしていた時とは違ってすっかりご機嫌になった美来の話に相槌を打ちながら当輝は歩いていた。
辺りには雑木林が生い茂っていて、何処か不気味な様子を醸し出している。
しかし当輝も美来も昔から通っている道なので特に気にした様子はない。
ただその日は何処か辺りに漂う雰囲気がいつもと違っていた。
「それで今日ね……」
そしてその不気味な雰囲気に当てられたように、当輝はまるで気温が一瞬にして10℃近く下がったような悪寒に襲われた。
当輝の体は言いようのない不安のようなものに蝕まれ、背筋には冷たい汗が伝っている。
当輝は思わず美来の横顔を見るが特に何かを感じた様子もなく笑顔で喋り続けていた。
当輝は自分の勘違いとも思ったが悪寒が止むことはなく、寧ろ強まるばかりだ。
「……美来」
「どうかした?」
「何だか嫌な予感がする。 悪いけど今から来た道を引き返してもいいかな?」
当輝の言葉に美来は少し訝しげな表情を浮かべるが、そのまま黙って頷いた。
当輝は知る由もないが美来は当輝に対して絶対的な信頼を置いている。
それは二人に起こった過去のある出来事故なのだが、とにかく当輝の表情を見れば美来にも何か緊迫した状況に置かれていることは理解出来た。
そして当輝の言葉通りに二人が踵を返そうとしたその時……。
「……いい勘をしている。 だが逃がす訳にはいかない」
目の前の空間がゆらりと揺らめいたかと思うと、まるで空間を引き裂いたように景色が割れた。
そしてそこから1人の男が姿を現す。
中肉中背の当輝と比べて頭1つ分くらい男の背は高い。
生粋の日本人である当輝や未来と比べると肌が雪のように白く、金髪碧眼である男は西洋人を思わせる。
黒を基調とした中世のヨーロッパ人の貴族が着ていたような、何処か気品を感じさせる服装をしていた。
しかし男の現れ方があまりに現実離れしていたため、男の特徴になど当輝達の気は回っていなかったが……。
「何者ですか?」
緊張のためか当輝の声音には少し刺のようなものが含まれる。
普通の当輝なら美来の手を引いてすぐに逃げ出す判断を下していたが、当輝の中の本能が男に背中を見せるのは危険だと警報を発していた。
当輝は美来を庇うような形で、男に向かって一歩進み出る。
その当輝の様子を観察するように眺めた後、男は背筋が凍るような冷たい声で言った。
「我が一族にとって、お前が真に脅威になる存在か見極めさせてもらう」
男がそう言った瞬間、対峙していた当輝と男の10mはあったであろう距離が一瞬にして縮まる。
男が何らかの手段で瞬間的に移動したと当輝が判断するのに僅かな時間を要した。
当輝は咄嗟に美来のことを後ろに向かって突き飛ばすが、当輝自身が男の攻撃を避ける反応が少しばかり遅れてしまう。
気付いた時には肩の位置から袖に掛けて制服が切り裂かれており、破れた制服の間から覗く当輝の肌には赤い線が浮かんでいる。
「……突然のイレギュラーな事態に対する緊張と女を庇った点を鑑みれば、反応としては及第点か」
当輝は鋭い痛みに顔を顰めながらも少しずつ後ずさりながら美来と共に男との距離を取る。
男のことを良く観察すると男の手にはナイフのようなものが握られていた。
ナイフのようなものという比喩を使った理由は、男の握っている刃物が正確にはナイフではなかったからだ。
短剣とでも言うのだろうか、RPGに出てくる盗賊が持っているような刃物が暗闇の中で輝いている。
そして短剣の刀身には薄らと淡く赤い光が宿っていた。
「当輝!?」
美来は当輝の傷を見て思わず悲鳴を上げる。
当輝が自分の胸元を見ると先程は赤い線に見える程度に血が滲んでいただけだったのが、今は溢れ出す様に血が流れ出ている。
思ったよりも当輝が男から受けた傷は深かったらしい。
それを見ると当輝は思わず眩暈を感じたが気絶してる場合ではない。
幸い普段の稽古から当輝は痛みに慣れていたため、のた打ち回るという事態に陥ることはなかった。
「美来、今すぐここを離れて助けを呼んで来てくれ」
「でも!!」
「どうなるか分からないけど、何にしろこの傷じゃ治療が必要になる。 出来れば一緒に救急車も……」
「だったら一緒に当輝も逃げなきゃ!!」
「アイツは僕達のことを逃がさないと言っていた。 二人で逃げたんじゃきっと何処までも追ってくるよ」
それに加えて先程のように一瞬で距離を縮めるような移動手段があるなら逃げきることは出来ないと当輝は考えていた。
それならば美来を逃がして当輝は戦うことに集中した方が助かる可能性は高い。
「……」
美来もこれ以上何か言っても当輝の迷惑にしかならないことを悟る。
当輝の強さを美来は誰よりも理解してると自負していた。
一瞬だけ美来は心配するように当輝の顔を見据えるが、すぐに踵を返して走り始める。
「……随分と悠長に待っていてくれたんですね」
美来と会話を続けている間、男が当輝に襲い掛かってくるようなことはなかった。
そして美来が助けを呼ぶためにこの場を離れたのを追いかける素振りもない。
当輝がそのことについて怪訝に思っていると、男は当輝の疑問に答えるように言った。
「女に用はない。 先程はお前の反応を見るために不意打ちを喰らわせた。 ここからはお前の力を見させてもらう」
男の言葉に当輝は内心でホッと息を吐く。
狙われているのが自分だけなら美来に危険が及ぶ可能性は少ない。
美来に危険がないことがわかった以上、後はどうやって当輝自身がこの危機を乗り越えるかだけだった。
「お前の力を試させてもらうぞ!!」
男はその顔に冷たい笑みを浮かべると、当輝に向かって一直線に走り抜けてきた。
凄まじいスピードだったが、先程と違い目で追えないものではない。
当輝は体をずらして短剣を突き出してきた男の腕を最小限の動きで避ける。
そのまま男の手首を掴み取ると男の上腕にもう片方の手を添え、男のスピードを殺さずに利用して腕を基点にして持ち上げるように投げ飛ばした。
旋風(つむじ)と呼ばれる相手の向かってくるスピードを利用して投げ飛ばす円心流の基本的な技の一つだ。
本来は円心流の外での使用は禁じられているが、命を狙われている以上そんな悠長なことは言ってられない。
当輝の負った傷は決して浅くないため、出来る限り早く男を戦闘不能にするべく当輝は追撃を掛ける。
宙に浮いた男の体が落ちてくるタイミングを見計らって、男の腰に当輝は蹴りを放った。
「ぐっ!?」
当輝によって綺麗に蹴りを決められた男からは呻き声が上がる。
男は咄嗟に当輝との距離を取ろうとするが手首が未だ当輝に攫まれたままだ。
当輝はそのまま男の手首を捻り上げると地面へと捻じ伏せる。
男の手から短剣が滑り落ち地面へと転がった。
すると男の手から離れた途端、短剣に宿っていた淡く赤い光は消えてなくなる。
「下手に力を入れると折れますよ」
当輝は地面に捻じ伏せた男に向かって冷たく言った。
当輝から見た男の取った戦法はおざなりなものだった。
スピードを初めとする身体能力は並外れているが、それに頼った直線的な動き。
相手の力を受け流し利用することによって攻撃の手段へと転じる円心流の使い手である当輝にとって、男は相性の良い相手だったと言えるかもしれない。
尤も男が最初に見せた正体不明の接近をされていたら当輝に為す術はなかったかもしれないが……。
「大人しくしていてください、いずれ警察もやって来ます」
「……」
当輝の言葉に男が答えることはなかったが特に抵抗する様子もない。
気掛かりなことは沢山あったが取り敢えず無事に事が進みそうで、安心した当輝は大きく息を吐く。
あまり好きではなかった円心流を学んできて、当輝が初めて良かったと思った瞬間だった。
今まで鬼のように強い祖父や父を相手にしていなければ、刃物を出された時点で当輝は怯んで動けなかっただろう。
気が緩んだためか今になって当輝は傷口から鋭い激痛を感じた。
当輝が傷口を見ると先程までと違って血が流れ出るということはないが、傷口周辺が真っ赤に染まっている。
思ったよりも重傷かもしれないと当輝は努めて冷静に状況を確認するが、そんな当輝の冷静さを遮るように男が急に高笑いを始めた。
「ハハハハハ、度胸も据わっている。 何より物事に対して正確に対処する冷静さも備わっているようだ……合格としても良いだろう」
「何を言って!?」
「……ただし若さ故か警戒心が著しく欠如している」
圧倒的に当輝が優位に立っていたにも拘らず、当輝は先程まで感じていた悪寒に再び襲われる。
正確には悪寒は先程から止んではいなかった。
しかし男を取り押さえた油断からか、当輝に張り詰めていた緊張が解けてしまっていた。
それは無理もないことかもしれない、何しろこれが当輝にとって祖父と父以外を相手とする初めての戦いだったのだから。
しかしその油断が当輝の反応を大きく遅れさせることとなる。
「がはっ!?」
気付いた時には当輝の体はコンクリートの塀に叩きつけられていた。
あまりの衝撃にコンクリートの塀は崩れ落ちている。
そしてそんな衝撃を普通の人間が受けて無事でいられる筈がなかった。
「う、うぅ……」
衝撃によって当輝が先程受けた傷口からは再び血が溢れ出し、それだけでなく背中と後頭部からも激しい痛みを感じる。
呼吸をすることすらままならない状態に当輝は陥っていた。
しかしそんな状況であるにも拘らず、当輝は目の前で起こっている現実離れした現象から目が離すことが出来なかった。
「お前には少し恐怖というものを味わってもらう」
そう言った男の背中からは異形なものが生えていた。
それは翼だった、漆黒に染まった翼が男の背中で揺らめいている。
男の姿はまさに悪魔を彷彿させるものだった。
「これからお前には我が一族が振るう力の一端を知ってもらうとしよう」
男がそう言うと次の瞬間、男の姿が当輝の目の前に迫っていた。
最初に男が見せた謎の移動方法と同じだ。
気付いた時には男の拳が当輝に向かって振り下ろされていた。
「くっ!?」
当輝が万全な状態とまでは行かなくとも通常の思考が出来る状態だったら、男の攻撃を利用し反撃に転じることが出来たかもしれない。
しかしながら当輝の体は既に満身創痍な状態で、とても冷静に男の攻撃に対処出来る状態ではなかった。
言うことを聞かない体に鞭を打って、体を捻らせることによって当輝は何とか男の拳を避けることに成功する。
しかし当輝の隣で粉々に砕け散ったコンクリートの残骸が当輝の脳裏に最悪の事態を予感させた。
「足掻くな、どう転んでもお前には安息は訪れない。 今、楽にあちら側に送ってやる」
しかし当輝も素直に男の言葉を受け入れる訳にはいかない。
当輝は少しでも男から距離を取るよう必死に足を動かしていた。
しかし……。
「……生に執着するのは悪いことではない。 しかしどちらにせよ、お前が逃げきることは叶わない」
男は逃げる当輝の目の前に立ち塞がると、無慈悲にその手を当輝に向かって突き出した。
そして突き出した男の手は当輝の胸を深々と貫いている。
「ぐはっ」
当輝の口からは凄まじい量の血液が吐き出される。
そして男が手を引き抜くと当輝の体はその場に糸が切れた操り人形のように崩れ落ちた。
既に当輝の意識はない。
ただ五感から情報が垂れ流されてくるだけだ。
「いずれまた会うこともあるだろう。 お前が我々の敵として立ち塞がってくれることを期待している」
男はそう言い残すると当輝の目の前から姿を消した。
男が姿を消したのと同時に、大切な少女の叫びが聞こえてくる。
その声は悲痛に満ちたものであり、その目からは留まることを知らないように涙が溢れ出ていた。
(泣かないで)
既に意識がないはずの当輝の心がそう告げた。
走馬灯だろうか?
何時だったかは思い出せないが、初めて見た少女の泣き顔が当輝の脳裏に思い出される。
それ以来、当輝が少女の泣いている姿を見たことはない。
しかし他ならぬ自分のせいで再び少女を泣かせる事態へと陥らせてしまった。
当輝にとってそれは心を締め付けるような悲痛なものだった。
(僕は君の笑顔が大好きなんだから)
口に出すことは無かったが少女は当輝にとって特別な存在だった。
少女の笑顔は見る者の心を温める不思議な魅力あった。
当輝も辛い時は少女の笑顔によって救われてきた。
そして最期に少女の笑顔が見れなかったことに後悔を残しながらも、当輝の命の灯は完全に消え去ってしまう。
しかし少年の物語はそこで終わったわけではない。
今まさに少年と少女の真の物語の幕が開けようとしていた。
プロローグを大幅に変更しました。
よろしくお願いします。