二十九話、幻想
いきなり現れた北条。上げられた大声。一瞬、教室の喧噪はなくなった。誰もが足を止めた。
「逃げてなんかいませんよ」
軽く笑みながら、遊は言った。それが合図となったのか、教室内の時がまた動き出す。
「逃げてないならなんだって言うの?」
北条は質問を重ねた。遊の隣にいる俺はどうすることもできず、ただ立っている。触れてはいけない空気。それを遊と北条は作っていた。
「決別……でしょうかね。過去と向き合って、まだ僕は人とつきあうほどの人間ではないと、自覚したんですよ。それになれるように、全力で成長していきたいですね」
なんだろう。遊が言った言葉は、霧のようなものを感じた。いや、最近の遊は、周りに壁と言うほど立派ではない、霧を築いている。
「そう、ならいいわ」
なにがいいのだろうか、俺はそう思う。わからない。何だろうか。
「私が告白したらどうするの?」
そう、北条は聞いた。なんなんだろうか。なぜこの場面で聞く? 俺には理解ができなかった。
「断るさ。もちろん」
そう遊は答えた。当然だろう、と俺は思う。
「そこが逃げているって言ってるのよ。相手のことは何も考えずに、自分の都合だけで告白を断る。それで逃げていないって言えるの? 相手の感情も考えずに、自分はまだ相手に及ばないっていう幻想に逃げているだけじゃないの?」
核心に迫るような感じで、北条は言った。自分にも当てはまるのだろうか……と、俺が思案し始めると、
「横のデブもそれでいいの?」
と、俺のことまで付け加えてきた。俺はどうなんだ? 遊はリア充だという幻想を持って、逃げていただけじゃないのか? 俺は二年前の後に、夕に何かしたのか? 好きな奴が自殺して悲しいのは、俺だけじゃないのか?遊はどうなんだ? あいつは沙羅をどう思っているんだ? わからない。俺たちは二年前から何も進展していないのか。その場で、悲しき偽りの友人を演じているだけなのか?
俺が思案していると、隣から怒鳴り声が聞こえた。
「おまえに俺たちの何がわかるんだ!」
遊が言い放った。俺は、そうだ、と同意した。おまえに俺たちの何がわかるんだ! 自分の心の中で反芻する。二年前の悲しさがおまえにわかってたまるか。俺たちが修復した時間は俺たちだけのものなんだ。
「遊君は、逃げているだけで、デブは何も言わない。あんたらそれでいいのかよ」
吐き捨てるように北条が言い、そのまま教室から出ていった。
「なんだったんだ……」
そう遊がつぶやいた後、俺らは教室を後にした。