第9話 追跡開始
公爵邸の空気が、一変した。
夜明けの冷たい光が廊下に差し込み始めた頃。
レオンハルト・ヴァルツ公爵は、使用人たちを一斉に動かしていた。
「屋敷中を当たれ」
低い声。
いつもの冷静さを保っている――ように見えて、声の奥に鋼の焦りが滲んでいた。
「奥様の侍女はどこだ」
「は、はい……マリアが、今こちらへ!」
駆け込んできた執事が報告すると、レオンハルトは即座に踵を返した。
寝室。
机の上の手紙。
隣に置かれた指輪。
その光景は、今も目に焼きついて離れない。
(……俺が、追い詰めた)
守るために距離を置いた。
守るために冷たくした。
だが、その結果がこれだ。
彼女は、消えた。
◇
マリアが廊下を駆けてきた。
顔色が悪い。
目元が赤い。
彼女が泣いた形跡を、レオンハルトは見逃さなかった。
「……マリア」
名を呼ぶ声は短い。
「奥様は、いつから出ていく準備をしていた」
マリアはびくりと肩を震わせ、深く頭を下げた。
「……わ、私は……昨夜、気づきました」
「昨夜?」
「はい。奥様が……お手紙を……」
マリアの声が詰まる。
その瞬間、レオンハルトの胸の奥が沈むように重くなった。
(昨夜、だと?)
つまり、彼女は――昨夜、一人で別れを決めた。
誰にも見せず、誰にも頼らず。
ただ、静かに。
胸の奥で、怒りにも似た感情が立ち上がる。
怒りの矛先は、他でもない自分だ。
「……契約を知ったのはいつだ」
マリアが、唇を噛む。
「……第、五書庫の帳簿です。奥様にお伝えするべきか迷いました。でも……期限が近くて……」
レオンハルトの瞳が、鋭く細まった。
帳簿が置かれているのは、通常、使用人も妻も立ち入らない場所だ。
つまり――誰かが、マリアに教え、妻を誘導させた可能性が高い。
誰が?
誰が彼女に「終わり」を突きつけた?
(……クラリス)
社交界で噂を流していた女。
あの女が“期限”を嗅ぎつけていたとしたら。
さらに――彼女が脅威側と繋がっていたとしたら。
最悪の筋が、繋がる。
レオンハルトは息を吸い、命令を落とした。
「ギルバートを呼べ」
「はっ」
◇
執務室に戻ると、ギルバートが既に地図を広げていた。
王都から伸びる街道。
宿場町の位置。
港までの距離。
そして、赤い印がいくつも打たれている。
「閣下。奥様が徒歩で出るには限界があります。馬車を使った可能性が高い」
「……門番は」
「交代の直前に、使用人用の出入口から“旅人用の小型馬車”が出たとの証言があります」
レオンハルトの拳が、ぎゅっと握られた。
「行き先は」
「不明。ただ、御者は口を割りません。金で雇われた可能性があります」
彼女は、そこまで考えて出ていった。
誰にも追わせないように。
誰にも見つからないように。
その事実が、さらに胸を抉る。
(……俺は、どれほど彼女を孤独にした)
ギルバートが慎重に言った。
「閣下。奥様は、今も標的である可能性があります」
「分かっている」
短い返答。
分かっているからこそ、焦る。
守るために距離を取ってきたのに。
彼女が外へ出たことで、むしろ危険が増した。
レオンハルトは地図を指でなぞった。
「……宿を当たれ。街道沿いの宿、すべてだ」
「はい」
「港も。出国の可能性は」
「低いですが、ゼロではありません」
レオンハルトは言い切った。
「ゼロにする」
◇
捜索は、容赦なく始まった。
公爵家の騎士が、複数の小隊に分かれて動く。
情報屋が街に散る。
宿の帳場に金が積まれ、目撃情報が集められる。
――そのすべてが、“エリシアを見つけるため”だった。
普段のレオンハルトなら、こんな露骨な動きはしない。
敵に嗅ぎつけられるからだ。
だが今は。
そんな計算よりも、彼女の方が大事だった。
(……間に合え)
胸の中で、何度もそれだけを繰り返す。
彼女がどこにいるのか。
無事なのか。
泣いていないか。
想像するだけで、喉の奥が痛む。
◇
昼前。
ギルバートが執務室に駆け込んできた。
「閣下!」
「……何だ」
「街道沿いの市場で、“貴族風の女性が外套姿で一人歩いていた”との証言がありました」
レオンハルトの呼吸が、一瞬止まる。
「場所は」
「東門から二里ほどの宿場町付近。市場が立つ日です」
レオンハルトは即座に外套を掴んだ。
迷いはない。
「馬を出せ」
「閣下、直行されますか」
「当然だ」
低い声に、鋼の意志が宿る。
「――俺が行く」
守ると決めた。
迎えに行くと決めた。
それを、今ここで果たす。
◇
廊下へ出る直前。
レオンハルトはふと、手紙を握りしめたままの自分に気づいた。
皺だらけになった紙。
彼女が、震える手で書いた別れの言葉。
それを見つめ、彼は小さく息を吐いた。
「……エリシア」
名を呼ぶ声が、かすれる。
この三年、呼びたくても呼べなかった名。
今度は、必ず。
彼女の前で呼ぶ。
嫌われてもいい。
泣かれてもいい。
――もう二度と、手放さない。
レオンハルトは階段を駆け下りた。
屋敷の外で、黒馬が嘶く。
鞍に飛び乗り、彼は駆け出した。
東門へ。
市場へ。
彼女がいる場所へ。
ただ一つの願いを胸に。
(……間に合ってくれ)




