第8話 氷の公爵の真実(レオン視点)
執務室の灯りは、夜通し消えなかった。
分厚いカーテンの向こうで夜が深まり、王都の喧騒が遠ざかっても、机の上の書類だけが増え続ける。
銀の燭台。
黒いインク。
王宮の紋章が刻まれた封蝋。
レオンハルト・ヴァルツ公爵は、ペンを置かずにいた。
眠っている暇はない。
――今日で終わらせる。
それだけが、頭の中にある。
「閣下」
背後から低い声がした。
側近のギルバートが、扉の前で膝をついている。
「報告を」
「……王弟派残党の連絡係。捕縛しました。証言も取れています」
「位置は」
「地下水路、第三分岐点。合図は《白鳥》」
レオンハルトの目が細くなる。
(……ようやくだ)
三年。
長すぎるほどの時間をかけて、ようやく最後の糸が見えた。
「……証拠は揃うか」
「はい。資金の流れも、名簿も。王宮に提出できる形に整っています」
レオンハルトは、机上の一通の封筒に視線を落とした。
そこには、王家の印。
“正式な決裁が下りる”直前の書類だった。
これが通れば――終わる。
終わらせて、初めて。
彼女を、抱きしめられる。
◇
ふいに、机の端に置いた小さな箱が目に入った。
細いベルベット張りの箱。
中には、指輪がある。
――新しい指輪だ。
これまでの“契約の印”ではない。
彼女のために選んだ、“妻として迎え直す”ための指輪。
レオンハルトは、それに指を触れた。
冷たいはずの宝石が、なぜか熱を持っている気がした。
(……明日だ)
明日。
すべてが終わったことを伝え、彼女を迎えに行く。
そして、言う。
――君を愛している。
長すぎる沈黙の終わりに。
◇
彼が眠らぬ夜を送る理由は、ひとつだった。
妻。
エリシア。
彼女が“標的”になっていたからだ。
最初の暗殺未遂は、結婚式の翌日。
馬車の車輪に細工。
転倒すれば、容易に命を落とす。
次は食事。
次は庭園。
次は贈り物。
――“夫の弱点”を狙う。
敵はそういうやり方をする。
だからこそ、レオンハルトは決めた。
近づかない。
触れない。
愛していると悟らせない。
彼女が「大切な存在」だと敵に知られれば、命を奪われる。
だから、嫌われる方がましだった。
(……嫌われるだけなら、俺は耐えられる)
そう思っていた。
――けれど。
彼女の細い背中を見るたびに、胸が痛んだ。
食卓で、視線を上げたいのに上げられない。
名前を呼びたいのに呼べない。
近づけば、守れなくなる。
愛を見せれば、殺される。
それが、現実だった。
◇
――三年前。
政略結婚の話が持ち込まれたとき、レオンハルトは即座に断るつもりだった。
自分は戦場にいる。
陰謀の中心にいる。
そんな男が妻を持てば、その瞬間から妻は標的になる。
守れない。
守れないのに、巻き込むことなどできない。
だが、提示された名前を見た瞬間、息が止まった。
『エリシア・アルノー伯爵令嬢』
脳裏に、あの日の光景がよみがえる。
王都の通り。
転びそうになった少女。
銀髪の男に支えられ、驚いた瞳で見上げた彼女。
――あのときの娘だ。
忘れられない瞳。
名も知らぬまま、心の奥に引っかかった存在。
しかも、調査報告書にはこうあった。
継母からの冷遇。
利用され続けた生家。
“売られる”ように決められた縁談。
(……守らなければ)
その想いは、即座に確信へ変わった。
守れるのは、俺しかいない。
だが同時に、彼は知っていた。
自分の周囲は危険だ。
妻になれば、必ず狙われる。
だから、レオンハルトは条件をつけた。
期間三年。
白い結婚。
期間中は、表向き夫婦としての体裁だけを保つ。
――彼女が巻き込まれず、三年後に安全が確保できるなら、そのとき迎え直す。
そういう計算だった。
(……計算、のはずだった)
◇
初夜。
彼女は純白のドレスで、ベッドに腰掛けていた。
緊張で強張る指先。
それでも、彼を信じているような瞳。
その瞳を見た瞬間。
レオンハルトは、理性で自分を縛り上げた。
抱きしめれば、終わる。
欲望ではない。
愛情で、終わる。
彼女はきっと、こちらへ心を寄せる。
そうすれば、敵に“弱点”だと悟られる。
だから、彼は言った。
『……今日は、休め』
拒絶ではない。
――必死な自制だった。
彼女の唇がかすかに震えたのを、見なかったことにはできなかった。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
(……すまない)
それでも、抱きしめなかった。
近づかなかった。
ソファに腰を下ろし、背を向けた。
その背中が、どれほど卑怯に見えたとしても。
守るためには、必要だった。
◇
そして三年。
彼女の部屋の前まで行っては、引き返す夜を数えきれないほど重ねた。
扉の向こうで、微かな寝息を確認して。
ようやく、呼吸を整えて戻る。
そんな夜ばかりだった。
彼女の誕生日も、覚えていた。
――覚えていたからこそ、下手に祝えなかった。
目立つことはできない。
贈り物は、敵に“特別”だと悟らせる。
だから――
料理長に命じた。
「ひとり分でも、豪華に出せ」
それだけ。
言葉ひとつ添えることもできずに。
彼女が少しでも温かいものを食べられるようにと願いながら。
(……馬鹿なことをした)
そんなもの、伝わるはずがない。
伝わらないのに。
彼女はきっと、また一人で食べて。
一人で泣いて。
――それでも俺は、抱きしめられなかった。
◇
「閣下」
ギルバートの声が、現実へ引き戻す。
「最後の手配が整いました。明け方には――処理が完了します」
レオンハルトは頷いた。
「……よくやった」
短く言い、書類に署名する。
ペン先が紙を走る音が、やけに大きく響いた。
これで終わる。
終わらせて、明日。
彼女に言う。
迎えに行く。
そう思った――そのとき。
執務室の扉が、控えめに叩かれた。
「閣下。失礼いたします」
使用人の声だった。
珍しい時間だ。
胸が、嫌な予感でざわつく。
「……何だ」
「奥様のお部屋に……お届け物が」
レオンハルトの眉がわずかに動いた。
「……届け物?」
「はい。机の上に、封筒と……指輪が」
一瞬。
世界の音が消えた。
「……指輪?」
血の気が引く。
レオンハルトは椅子を蹴るように立ち上がった。
「案内しろ」
声が低く、鋭くなる。
◇
彼女の寝室の前に立ったとき、扉の向こうは静まり返っていた。
いつもと同じ静けさ。
――なのに、嫌な予感だけが確信に変わっていく。
扉を開ける。
「……エリシア」
呼んでも、返事はない。
ベッドは整えられている。
人の温もりが、どこにもない。
机の上に、封筒が一通。
そして、その隣に――指輪。
レオンハルトの足が止まった。
指が、僅かに震える。
封を切る手が、信じられないほど重い。
中の便箋に目を落とし、数行を読み終えた瞬間。
彼の表情が、崩れた。
――初めて。
氷の公爵の顔から、血の気が引いた。
「……いない?」
声が、かすれる。
嘘だ。
まだ終わっていない。
明日、伝えるはずだった。
迎え直すはずだった。
なのに――
彼女は、いない。
机の上の指輪が、残酷に光っている。
契約の印を置いて去った。
それはつまり。
彼女は、最初から――
(……俺は)
守ったつもりで、追い詰めた。
愛したつもりで、孤独にした。
気づいたときには、遅かった。
胸の奥が、焼けるように痛い。
「……馬鹿な」
低い声が、震えた。
彼は、手紙を握り潰しそうな力で掴んだ。
そして、唇の奥から絞り出すように呟く。
「……待て」
今すぐ、行く。
どこへでも。
彼女がいる場所へ。
◇
レオンハルトは、踵を返した。
背中に、氷ではなく鋼の怒りと焦燥を宿して。
「ギルバート」
低く呼ぶ。
側近が即座に膝をつく。
「はい、閣下」
レオンハルトは言い切った。
「――妻を探せ。今すぐだ」




