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【連載版】白い結婚が終わるはずでしたが、無関心だった公爵様が今さら溺愛してきます  作者: 風谷 華


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第7話 夜明けの脱出

 夜明け前。


 公爵邸が最も静かな時間。


 窓の外はまだ群青で、遠くの空がほんの少しだけ白み始めている。

 鳥の声もまだ聞こえない。


 私は外套を羽織り、トランクの取っ手を握った。


 革の感触が冷たい。


 胸の奥は、痛いほど熱いのに。


(……行くのよ)


 自分に言い聞かせる。


 明後日で終わる契約。

 その前に、私はここを出る。


 誰にも迷惑をかけずに。

 誰にも、泣きつかずに。


 最後くらい、綺麗に。


 私は寝室の扉の前で一度だけ振り返った。


 天蓋付きのベッド。

 絹のカーテン。

 高価な香りの石鹸。


 ここで私は何度も泣いた。


 泣く資格なんてない、と言い聞かせながら泣いた。


「……さようなら」


 小さく呟いて、扉を開けた。


 ◇


 廊下は薄暗く、燭台の火だけが頼りない。


 靴音が響かないよう、私は靴を手に持って歩いた。

 靴下越しに伝わる石の床の冷たさが、妙に現実的で――胸がきゅっと縮む。


(……見つかったら)


 もし誰かに見つかったら。

 呼び止められたら。


 ――私は、止まってしまうかもしれない。


 そう思うと、足が震えた。


 けれど、廊下は静かだった。


 誰もいない。


 当然だ。


 私はこの屋敷で、ずっと透明だったのだから。


 曲がり角をひとつ、ふたつ。

 長い回廊を抜ける。


 途中で、遠くの部屋から低い物音がした気がして、私は立ち止まった。


 息を止める。


 耳を澄ませる。


 ……何も聞こえない。


 心臓が、喉の奥でどくどく鳴っている。


(大丈夫……)


 私は自分の肩をそっと抱き、再び歩き出した。


 ◇


 使用人用の階段を下りる。


 手すりに指先を添えると、ひやりと冷たい。


 階下の廊下へ出ると、灯りはさらに薄い。

 窓の外の夜明け前の青が、床に滲んでいた。


 ここまで来れば、あと少し。


 使用人用の出入口。


 外へ通じる扉。


 そこまで辿り着き、私はトランクを少し持ち上げる。


 重い。


 けれど、この重さは――私の三年間に比べれば、軽かった。


 扉の前に立った瞬間、背後に気配を感じた。


 ぞくり、と背筋が冷える。


 私は振り返れない。


 振り返ったら、終わってしまう気がした。


 静寂。


 ほんの数秒が、永遠みたいに長い。


 やがて、遠くから足音が聞こえた。


 巡回の衛兵だ。


 私は胸の奥から息を吐き、壁際の影に身を寄せた。


 足音が近づく。


 近づいて――


 そのまま通り過ぎていく。


 灯りが揺れ、衛兵の影が壁を横切り、そして消えた。


(……行ける)


 私は扉の取っ手に手をかけた。


 金属が冷たい。


 けれど、ここで躊躇したら――私は戻ってしまう。


 ぎ、と小さな音がした。


 扉が開く。


 外の空気が、冷たく頬を撫でた。


 ◇


 庭の石畳を踏む。


 草の匂い。

 朝露の湿り気。


 空はまだ薄暗いのに、世界だけは何事もないように動き始めていた。


 鳥が一羽、庭木の枝で小さく鳴いた。


 私はトランクを引き、屋敷の外れへ向かう。


 使用人たちの早朝の出入りに紛れられるよう、時間は計算していた。


(……ここまで来たら、振り返らない)


 振り返ったら、私は――きっと。


 「行かないで」と言われる幻想を期待してしまう。


 そんなもの、あるはずがないのに。


 ◇


 門の近くには、既に外に出るための小さな馬車が待っていた。


 御者は、私が事前に用意しておいた者。

 身分を詮索しない、旅人向けの馬車だ。


「……お急ぎですか」


 御者が小声で尋ねる。


「ええ。……お願いします」


 私はフードを深く被り、馬車に乗り込んだ。


 トランクが運び込まれ、扉が閉まる。


 その音が、胸に響いた。


 ごとん、と車輪が動き出す。


 馬の蹄の音が、石畳を軽く叩く。


 馬車はゆっくりと門を抜け、外へ――公爵邸の外へ出ていった。


 ◇


 カーテンの隙間から、屋敷の輪郭が遠ざかるのが見える。


 巨大な屋根。

 高い塔。

 庭の噴水。


 そこは、私が三年間暮らした場所。


 私の“妻”としての時間が閉じ込められた場所。


 私は、そっと手を握りしめた。


 薬指に、指輪はない。


 その空白が、痛いほど主張してくる。


(……終わったんだ)


 まだ契約の期限は来ていない。


 でも、私の中ではもう――終わった。


 視界が滲んだ。


 涙が出るのは嫌だった。


 最後まで、綺麗に終わらせると決めたのに。


 けれど、堪えられなかった。


 ひとつ零れた涙は、止まらなくなり、頬を伝って落ちた。


「……さようなら」


 もう一度、小さく呟く。


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。


 この屋敷に?

 “公爵夫人”の自分に?

 それとも――


 あの冷たい背中に?


 私は、唇を噛んだ。


(……好きでした)


 胸の奥で、言葉にならない想いが震える。


 初恋の人。


 夫になった人。


 最後まで、私の方だけが好きだった人。


 馬車が揺れる。


 車輪が石畳から土の道へ移ると、音が変わった。


 ごとごと。

 がたがた。


 遠ざかっていく。


 どこまでも。


 私はカーテンを閉じ、顔を伏せた。


 そして、泣いた。


 声を殺して。

 誰にも聞かれないように。


 ――夜明けの空が白み始める頃、私はようやく、涙を拭った。


 これでいい。


 これで、よかった。


 そう思わなければ、前へ進めない。


 それでも胸の奥は、痛いままだった。



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