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【連載版】白い結婚が終わるはずでしたが、無関心だった公爵様が今さら溺愛してきます  作者: 風谷 華


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第6話 別れの準備

 夜更け。


 公爵邸の廊下は、昼とは別の顔をしていた。


 燭台の灯りが絨毯に柔らかな影を落とし、遠くで時計が規則正しく時を刻む。

 静けさが、音として聞こえるほどだった。


 私は自室の机に向かい、真っ白な便箋を前にペンを握ったまま動けずにいた。


(……書くんだ)


 明後日で終わる。

 結婚も、私の居場所も。


 分かっているのに――指先が震えて、インク壺にペン先を落とすことすらできない。


 胸の奥が、ずっと痛い。


 痛いのに、泣き声を上げるわけにはいかない。


 私は、公爵夫人なのだから。


 ◇


 今日一日、私は不思議なくらい“普通”に過ごした。


 朝はいつもの無言の朝食。

 廊下ですれ違っても、視線は交わらない。

 昼には刺繍をして、笑顔を作って、使用人に礼を言った。


 ――何も変わらない。


 変わらないはずなのに。


(私だけが、知ってしまった)


 この結婚が、最初から期限付きだったこと。


 白い結婚が“条件”だったこと。


 そして、もうすぐ終わること。


 知らなければ、いつも通りの痛みで済んだかもしれない。


 でも知ってしまった以上、私の心は勝手に結論へ向かっていく。


(……終わるなら、私が先に終わらせよう)


 最後くらい、静かに。


 綺麗に。


 誰にも迷惑をかけずに。


 ◇


 ノックの音がした。


「奥様……起きていらっしゃいますか」


 マリアの声。


 私は慌てて便箋を伏せ、深呼吸してから扉を開けた。


「どうしたの?」


 マリアは小さな包みを抱えていた。


「夜分に申し訳ありません。お茶を……と、思いまして」


 彼女の気遣いが胸に沁みる。


「ありがとう。入って」


 マリアはテーブルに小さなトレイを置き、紅茶を注いでくれた。

 香りが立ち上って、少しだけ心がほどける。


 でも、マリアの視線が、机の上に伏せた便箋に吸い寄せられたのを私は見逃さなかった。


「……奥様」


 控えめな声。


「……何か、書かれていたんですか」


 私は一瞬、迷った。


 マリアにだけは、知られたくない。

 心配をかけたくない。


 けれど――嘘も、つけなかった。


「……手紙をね」


 マリアの瞳が揺れる。


「……閣下へ、ですか」


 私は頷いた。


 マリアは、唇を噛んだ。

 泣きそうな顔で、それでも必死に涙をこらえている。


「奥様……本当に、行ってしまうんですか」


 その言葉が、胸に刺さった。


 行ってしまう。


 まるで、私が悪いことをするみたいに聞こえてしまう。


「……行かなきゃ」


 私は、静かに言った。


「期限が来たら、どうせ終わるもの。だったら……私が先に、整理してしまった方がいい」


 マリアは首を振った。


「そんな……奥様は、何も悪くありません」


「……分かってる」


 本当は、分かっていない。


 何が悪いのか、私にはもう分からない。


 ただ一つ確かなのは。


 私はここにいても、これ以上幸せになれないということ。


 マリアは、拳を握りしめたまま俯いた。


「……せめて、奥様が困らないように。必要なもの、ありますか」


 その言葉に、胸が熱くなる。


 私は少しだけ笑ってみせた。


「大丈夫よ。私、荷物なんて……ほとんどないもの」


 それが真実だと、マリアも分かってしまったのか。


 彼女は小さく息を呑み、目を伏せた。


「……奥様」


 私は、彼女の手をそっと握った。


「ありがとう。あなたがいてくれて、救われた」


 マリアの瞳から、ついに涙がこぼれた。


 私はそれを見ないふりをして、彼女が落ち着くまで紅茶の香りの中で静かに待った。


 やがてマリアは深く頭を下げ、部屋を出ていった。


 扉が閉まる音がした。


 静けさが戻る。


 ◇


 私は便箋を戻し、再びペンを握った。


(書かなきゃ)


 書かなければ、前に進めない。


 最後の言葉を、残さなければ。


 でも、胸が苦しくて、視界が滲む。


 そこでふと、机の引き出しの奥にしまっていたものに気づいた。


 ――小さな箱。


 母の形見のブローチ。


 それを指先で撫でると、懐かしい温度が胸の奥に灯った。


(……私、何を残したんだろう)


 公爵夫人としての三年間。


 豪華なドレスも、宝石も、称賛も、私には関係なかった。


 残ったのは、無言の食卓と、冷たい背中と、泣きたい夜だけ。


 私は息を吸い、ペンを走らせた。


---


『レオンハルト様


 三年間、お世話になりました。


 公爵夫人として至らぬ点ばかりで、申し訳ございません。


 明後日で契約が満了するとのこと、承知しております。


 私がここにいることで、あなたのご負担になるのなら、

 身を引くのが最善だと思いました。


 どうか、どうかお幸せに。


 エリシア』


---


 たった数行。


 それだけなのに、胸が裂けそうだった。


 私は便箋を折り、封筒に入れた。


 封をするための蝋を溶かす。


 赤い蝋が小さく揺れ、やがて固まる。


 そこに私の印を押すと――それは、別れの証になった。


(……書けてしまった)


 書いてしまったら、もう戻れない。


 私は、しばらく封筒を見つめて動けなかった。


 ◇


 次に、机の上へそっと指輪を置いた。


 薬指から外すと、肌に輪の跡が残っている。


 その跡が、妙に生々しい。


 指輪は豪奢で、美しくて。

 でも、温もりをくれたことは一度もなかった。


(……契約の印)


 愛の証ではない。


 そう思うべきなのに――


 胸の奥で「きゅ」と何かが鳴った。


 私は、そっと左手を握りしめた。


(……好きだった)


 初恋の人。

 憧れた人。

 夫になった人。


 その人から、優しく名前を呼ばれたかった。

 一度でいいから、抱きしめられたかった。


 馬鹿みたいに。


 ずっと、そんなことを願ってしまっていた。


 ◇


 私はトランクを引き寄せた。


 蓋を開けると、中はほとんど空っぽだった。


 母の形見。

 数冊の本。

 古いリボン。

 質素なドレス。


 三年間の暮らしとは思えないほど、少ない。


 まるで――私は最初からこの屋敷に“いなかった”みたいだ。


 私は小さく笑った。


「……本当に、何も残せなかったんだ」


 公爵夫人としても。

 妻としても。

 一人の女性としても。


 私は、淡々と荷物を詰め始めた。


 余計なものは持たない。

 迷いも持たない。


 ただ、静かに出ていく。


 それだけ。


 やがて、トランクの蓋を閉じ、鍵をかけた。


 その音は、覚悟を確かめる音だった。


 ◇


 窓の外は、夜更けの青。


 遠くの灯りが小さく揺れている。


 私は机の上に、手紙と指輪を並べた。


 それを見た瞬間、胸の奥がもう一度痛んだ。


(……本当は)


 引き止めてほしい。


 私の名前を呼んでほしい。


 ――行くな、と言ってほしい。


 でも、そんな願いは、叶うはずがない。


 この三年間が証明している。


 私はこの屋敷で、ずっと透明だった。


 レオンハルト様の視界に入らない女だった。


 だから、私は立ち上がった。


 机の上の二つを、もう一度だけ見つめる。


 手紙と指輪。


 私の三年間の結末。


 そして、初恋の終わり。


「……さようなら」


 誰にも届かない声で呟き、私は灯りを落とした。


 ベッドに横になっても、眠れる気がしなかった。


 けれど、目を閉じた。


 ――明日は、準備の最終日。


 明後日には、私はここを出る。


 静かに。

 誰にも迷惑をかけずに。


 綺麗に終わらせるために。


 私は、胸の痛みを抱えたまま、夜の底へ沈んでいった。



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