第5話 三年目の契約
朝食の席は、今日も静かだった。
長いテーブルの向こう側で、レオンハルト様は書類に目を落としている。
銀髪が朝の光を受けて淡く光り、横顔は彫刻みたいに整っているのに――その表情は、いつもと同じで冷たい。
「おはようございます」
「……ああ」
それだけ。
それ以上は、何もない。
私はカップを両手で包むように持ち、紅茶の湯気を眺めた。
(……もう、慣れたはず)
そう思うのに、胸の奥は毎朝きゅっと痛む。
社交界で噂された“白い結婚”。
同情と嘲笑が混じった視線。
クラリスの甘い声。
『三年間もご結婚なさっているのに、いつも別行動だなんて』
『白い結婚だって、話もありますわよ?』
あの言葉が、まだ耳に残っている。
(……私、笑いものなんだ)
言い返せない。
否定できない。
だって――事実だから。
私は小さく息を吐き、ナイフを握った。
肉は柔らかく、味付けも完璧。
この屋敷の食事は、いつだって豪華で美味しい。
それなのに、胸は満たされない。
向かいの席にいる夫が、こちらを見ないから。
◇
食事を終え、私は自室へ戻った。
扉を閉めた瞬間、ようやく息ができる気がした。
豪華で、整えられた部屋。
完璧な香り。
完璧な静けさ。
完璧すぎて、私の居場所じゃないと突きつけられる。
机の上には、マリアにもらったハンカチが畳んで置いてある。
淡い水色の刺繍が、朝の光に優しく揺れていた。
(……私も、こういう優しさが欲しかった)
――夫から。
胸が、ちくりと痛む。
そのとき、控えめなノックがした。
「奥様。失礼いたします」
マリアの声だった。
「どうしたの?」
扉を開けると、彼女はいつもより少し青ざめていた。
手に、帳簿のような厚い冊子を抱えている。
「……奥様、少し、お時間をいただけますか」
その表情に、嫌な予感が走った。
私は頷き、彼女を部屋へ招き入れる。
マリアは扉を閉めると、まるで誰かに聞かれるのを恐れるように声を落とした。
「……奥様。あの……ご存じ、ですか」
「……何を?」
マリアは一度唇を噛み、それから覚悟を決めたように言った。
「ご結婚の際に交わされた“婚姻契約”のことです」
心臓が、どくんと鳴った。
「契約……?」
「はい。期間が定められた、契約です」
私は、言葉の意味がすぐには理解できなかった。
だって、結婚は――契約なんて、そういうものじゃなくて。
少なくとも私は、そう信じたかった。
「……期間って」
声が、かすれる。
マリアは目を伏せたまま、続けた。
「……三年です」
頭の中が、真っ白になった。
「……三年」
私がこの屋敷で“妻”として過ごした時間。
その三年が――最初から、終わりのあるものだった?
マリアは震える指で冊子を抱きしめる。
「私も、最近になって知ったんです。奥様に申し上げるべきか迷って……でも……」
「……でも?」
「……期限が、もうすぐなんです」
息が止まった。
「もうすぐ?」
マリアの声は、泣きそうに震えていた。
「明後日です」
……明後日。
私の誕生日の翌日。
あの豪華な食事を一人で食べて泣いた夜から、まだ、数日も経っていないのに。
(終わるの……?)
私の結婚が。
私の居場所が。
私の、三年間が。
――明後日で。
◇
マリアは恐る恐る、冊子を机の上に置いた。
「奥様……」
呼ばれても、私は返事ができなかった。
視界が揺れて、文字が滲む。
それでも、私は冊子に手を伸ばした。
革の表紙。
重みのある紙。
ページをめくる音が、部屋の静けさの中でやけに大きい。
そして――見つけた。
『婚姻契約書控え』
指先が冷たくなる。
私はページを開き、震える目で文字を追った。
『期間三年』
『身体的関係を持たないこと』
『期間満了後、双方の合意により解消可能』
「……」
喉が、鳴った。
(……白い結婚)
噂じゃない。
最初から決められていた。
“触れないこと”が条件だった。
そして、三年で終わる。
私は、笑ってしまいそうになった。
「……私、最初から」
声が出ない。
笑いも、涙も、どちらも喉の奥で詰まっている。
最初から、“期限付きの妻”。
愛されるための結婚じゃない。
選ばれたんじゃない。
ただの、契約。
◇
マリアが小さく息を呑む。
「奥様、違うんです。奥様が悪いわけじゃ……」
「……いいの」
私は、かろうじて微笑んだ。
微笑まなければ、崩れてしまいそうだった。
「ありがとう、マリア。教えてくれて」
「……奥様」
マリアの瞳が潤んでいる。
私は、彼女の前で泣きたくなかった。
だから、肩をすくめるように笑う。
「大丈夫よ。……そういうことだったのね、って、分かっただけ」
分かっただけ。
――これで、諦められる。
マリアが部屋を出たあと、扉が閉まる音がした。
その音は、なぜか。
私の心に、鍵をかける音に似ていた。
◇
私は机に突っ伏し、深く息を吐いた。
胸が痛い。
頭が痛い。
指先が冷たい。
(……明後日で終わる)
結婚生活が終わる。
公爵夫人としての生活が終わる。
そして――私の“初恋”も、終わる。
私は、そっと左手の薬指を見つめた。
そこにある指輪は、豪奢で、美しい。
けれど、その輝きが、今は残酷に見える。
(契約の印)
愛の証じゃない。
私は立ち上がり、部屋の隅に置いてあるトランクに目を向けた。
いつからだろう。
あれを見るたび、胸の奥がざわつくようになったのは。
(……もし、ここを出たら)
どこへ行けばいい?
生家に戻る?
――無理だ。
あそこは私を“駒”として扱う場所。
帰った瞬間、また売られる。
(じゃあ、どこへ)
答えはない。
ただ一つ確かなのは。
この屋敷にいても、私は傷つくばかりだということ。
社交界では笑われ、屋敷では透明で、そして契約が切れれば――私は“用済み”になる。
「……綺麗に終わりたい」
誰にも迷惑をかけずに。
誰にも泣きつかずに。
最後くらい、静かに。
そう思った瞬間。
なぜか、心の奥に幼い願いが浮かんでしまった。
(本当は、引き止めてほしい)
扉が開いて、あの人が入ってきて。
冷たい声でもいい。
「行くな」と。
その一言だけでいいのに。
私は唇を噛んだ。
(……馬鹿みたい)
そんなこと、あるわけがない。
だって、これは契約。
終わることが決まっていた結婚。
私は、最初から――選ばれていなかった。
◇
夜。
食堂では、レオンハルト様が静かに食事をしていた。
私は向かいに座り、いつも通りの挨拶をした。
「……お疲れ様です」
「……ああ」
短い返事。
視線は合わない。
(この人は、知ってるのかな)
契約のことを。
期限のことを。
――明後日で終わることを。
聞いてしまえばいい。
そうすれば、すべてが終わる。
でも、喉が震えて、声が出なかった。
もし、彼が淡々と「そうだ」と頷いたら。
私はきっと、その場で壊れてしまう。
だから、私は何も言えなかった。
そして、食事は静かに終わった。
最後まで、何も変わらないまま。
◇
部屋に戻ると、私は机の引き出しを開けた。
白い便箋が、そこにある。
ペンも。
封筒も。
(……書けるのかな)
別れの手紙なんて。
胸が痛いのに、手は冷たい。
私は便箋を一枚取り出し、机の上に置いた。
真っ白な紙。
そこに、私の三年間が終わる言葉を書くことになる。
指先が震えた。
「……明後日で、終わる」
ぽつりと呟く。
その瞬間、胸の奥が静かに崩れた。
涙が一滴、便箋の端に落ちる。
にじんだ丸い跡は、まるで――
私の“初恋”の終わりを告げる印みたいだった。




