第4話 拒絶された初夜の記憶
夜の公爵邸は、ひどく静かだった。
長い廊下に並ぶ燭台の灯りが、淡く揺れながら赤い絨毯を照らしている。
遠くで、時計の針が時を刻む音だけが響いていた。
私は、自室の寝室で、ベッドの端に腰を下ろしていた。
天蓋付きの大きなベッド。
柔らかなシーツ。
高級な香油のほのかな香り。
誰もが羨む、公爵夫人の寝室。
……なのに。
ここは、いつも寒い。
(……今日も、来ない)
視線を扉へ向けながら、小さく息を吐く。
結婚して、三年。
同じ屋敷に住みながら、夫と夜を共にしたことは、一度もなかった。
レオンハルト様は、ほとんど毎晩、執務室か別室で眠る。
この部屋に長く留まったことなど、ほとんどない。
(……もう、期待するのはやめたはずなのに)
そう思っても、心は言うことを聞かない。
ほんの少し。
ほんの一瞬だけでも。
「今日は来てくれるかもしれない」
そんな希望が、毎晩胸に浮かんでしまう。
そして、裏切られる。
その繰り返しだった。
◇
私は、ドレッサーの前に立ち、鏡を見つめた。
淡い金髪。
控えめな顔立ち。
少し疲れた目。
そこに映るのは、自信を失った私だった。
「……私、魅力がないのかな」
ぽつりと、呟く。
答えてくれる人はいない。
社交界では、笑顔を貼りつけている。
使用人たちの前では、気丈に振る舞っている。
でも、本当は。
ずっと、怖かった。
(嫌われているんじゃないか)
(必要とされていないんじゃないか)
そんな不安ばかりが、積み重なっていく。
ふと、胸の奥がきゅっと痛んだ。
その瞬間――
私は、昔の記憶に引き戻されていた。
◇
……私が、彼を好きになったのは。
きっと、結婚するより、ずっと前のこと。
まだ、ただの伯爵令嬢だった頃。
王都で、親しい友人とカフェを訪れた日のことだ。
白い石造りの建物に、淡い水色の看板。
窓辺には花が飾られ、甘い焼き菓子の香りが漂っていた。
「ねえエリシア、ここ、すごく可愛いでしょう?」
「本当……まるで絵本みたい」
紅茶の水面が、陽光を受けてきらきらと揺れる。
私は、あの穏やかな午後が好きだった。
店を出たあと、私たちは賑やかな通りを歩いていた。
馬車の音。
人々の笑い声。
行き交う人波。
そのときだった。
背後から誰かにぶつかられ、私はよろめいた。
「きゃ……!」
転びそうになった瞬間――
「――危ない」
低く、落ち着いた声。
誰かの腕が、私を支えた。
強すぎず、弱すぎず。
けれど、確かな力。
顔を上げた先にいたのは、銀色の髪の青年だった。
陽光を受けて輝く髪。
澄んだ青い瞳。
その瞳が、真剣に私を見つめていた。
『怪我はないか』
その一言で。
胸が、どくん、と跳ねた。
心臓の音が、耳の奥まで響く。
「……だ、大丈夫です」
声が震えた。
彼は一瞬だけ私を見つめ、それから静かに手を離した。
『そうか』
それだけ言って、踵を返す。
名乗りもしない。
振り返りもしない。
雑踏の中へ、溶けるように消えていった。
名前も知らない。
身分も知らない。
けれど――
あの背中だけは、なぜか忘れられなかった。
それから私は、無意識に銀髪の男性を探すようになった。
人混みで似た後ろ姿を見つけるたび、胸が跳ねて。
……でも、いつも違う人だった。
そして、思うようになった。
――もう一度、会えたらいいのに、と。
まさか。
その人が、未来の夫になるなんて。
このときの私は、夢にも思っていなかった。
◇
記憶は、静かに消えていく。
私の意識は、再び現在の寝室に戻っていた。
「……馬鹿みたい」
初恋の人が夫になった。
それなのに。
こんな関係になるなんて。
(……初夜も、そうだった)
胸の奥が、ずきりと痛む。
私は、ゆっくりと目を閉じた。
◇
三年前。
結婚初夜。
純白のドレスに身を包み、私はベッドに腰掛けていた。
燭台の灯りが揺れ、部屋は幻想的に照らされている。
心臓が、うるさいほど鳴っていた。
(……大丈夫)
(きっと、優しくしてくれる)
あの人は、私の初恋の人。
冷たいけれど、誠実な人。
そう、信じていた。
扉が開く音がして、彼が入ってきた。
黒い正装。
銀の髪。
凛とした佇まい。
胸が、高鳴った。
けれど――
『……今日は、休め』
彼の口から出たのは、その一言だけだった。
「……え?」
意味が分からなかった。
彼は視線を逸らしたまま続ける。
『無理をする必要はない』
そして、私から距離を取り、ソファに腰を下ろした。
まるで、壁を作るように。
(……無理?)
(……私と、触れるのが?)
頭が真っ白になった。
胸が、締めつけられる。
「……あの……」
何か言おうとした。
でも、喉が詰まって、声にならなかった。
彼は、それ以上何も言わなかった。
ただ、背を向けて座っているだけ。
その夜。
私は、一人で泣きながら眠った。
◇
それから三年。
あの夜から、何も変わらなかった。
距離は縮まらない。
言葉も増えない。
触れ合うこともない。
私は、少しずつ思い込むようになった。
(……嫌われているんだ)
(……私は、失敗だったんだ)
そう考えることでしか、自分を守れなかった。
◇
現在。
私は、毛布を引き寄せ、肩までかぶる。
身体よりも、心が冷えていた。
「……好きだったのに」
初恋の人。
憧れた人。
夢見た人。
そのすべてが、遠い。
「……どうして、こんなふうになったの」
答えは、返ってこない。
部屋には、時計の音だけが響く。
私は、そっと目を閉じた。
頬を伝う涙が、枕に染み込んでいく。
――この夜も、私はひとりだった。




