第3話 白い結婚の噂
その日は、久しぶりに社交界の集まりが開かれる日だった。
王都の中心にある大広間。
天井には豪奢なシャンデリアが輝き、色とりどりのドレスが花のように咲き誇る。
本来なら、胸が高鳴るはずの場所。
……けれど、今の私には、ただ重たいだけだった。
「奥様、こちらでございます」
マリアに案内されながら、私は静かに会場へ足を踏み入れる。
周囲の視線が、一斉にこちらへ向いた。
それだけで、背中が強張る。
(……見られてる)
理由は、分かっている。
私は――“氷の公爵の妻”。
そして同時に、“愛されていない妻”。
◇
会場に入ってすぐ、私は違和感を覚えた。
――視線が、冷たい。
以前は、表向きだけでも微笑みを向けてくれた貴族たちが、今日はどこか距離を取っている。
小さく囁く声。
隠すように交わされる視線。
「……ねえ、あの人よ」
「噂の……」
「やっぱり……」
耳に届く断片的な言葉。
胸が、嫌な音を立てて鳴った。
(……噂?)
私は、何も知らない。
何もしていない。
なのに。
◇
テーブルの近くで、数人の令嬢が談笑しているのが見えた。
その中心にいたのは――
華やかな金髪に、鮮やかな紅のドレス。
自信に満ちた笑み。
クラリス・ルーデン侯爵令嬢。
社交界でも有名な、美貌と野心を併せ持つ女性だ。
彼女は、私に気づくと、わざとらしく微笑んだ。
「あら……エリシア様」
甘い声で、こちらへ歩み寄ってくる。
「ごきげんよう。お久しぶりですわね」
「……ごきげんよう、クラリス様」
私は、ぎこちなく頭を下げた。
すると、彼女は扇子で口元を隠しながら、小さく笑う。
「今日も、お一人ですの?」
その言葉に、周囲の視線が集まった。
私は、喉が詰まるのを感じながら答える。
「……ええ。公爵様は、お仕事が立て込んでいるようで」
「まあ……そうなの」
クラリスは、意味ありげに目を細めた。
「でも、不思議ですわね」
「……何が、でしょうか」
「三年間もご結婚なさっているのに、いつも別行動だなんて」
周囲の令嬢たちが、息を呑むのが分かった。
嫌な予感が、背中を這い上がる。
「……仲が悪い、なんて噂もありますし」
くすり、と。
小さな笑い声。
「いえ、それどころか……」
クラリスは、声を潜めた。
――でも、わざと聞こえるように。
「“白い結婚”だって、話もありますわよ?」
ざわっ、と空気が揺れた。
頭の中が、真っ白になる。
(……え?)
白い結婚。
――夫婦なのに、何もない関係。
そんな噂が、いつの間に。
「ま、まさか……」
「本当なのかしら」
「だから、あんなに冷たいのね……」
ひそひそと広がる声。
私の耳に、全部届いてしまう。
胸が、ぎゅっと締めつけられた。
「……そんなこと……」
否定しようとした。
でも、言葉が出てこない。
だって。
事実だから。
私たちは――三年間、何もなかった。
◇
クラリスは、満足そうに微笑んだ。
「まあ、失礼。噂話なんて、良くないですわよね」
そう言いながら、その目は笑っていない。
「でも……公爵様ほどの方なら、もっと相応しいお相手がいらっしゃると思うのですけれど」
それは、明確な宣戦布告だった。
私は、何も言えなかった。
言い返す材料が、どこにもない。
「……少し、失礼いたします」
かろうじてそう告げて、その場を離れた。
背中に、いくつもの視線が突き刺さる。
◇
庭園へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。
ようやく、息ができる。
私は、噴水のそばのベンチに腰を下ろした。
「……白い結婚……」
小さく呟く。
知らないうちに、私は“哀れな妻”として、笑いものになっていた。
(……やっぱり)
みんな、知っている。
私が、愛されていないことを。
誰よりも、私自身が。
視界が滲む。
でも、ここで泣くわけにはいかない。
私は、ぎゅっとハンカチを握りしめた。
◇
夜。
屋敷に戻っても、胸の重さは消えなかった。
食堂には、レオンハルト様がいた。
珍しく、先に席に着いている。
私は、少しだけ迷ってから、向かいに座った。
「……お疲れ様です」
「……ああ」
短い返事。
やっぱり、視線は合わない。
今日、社交界で何があったか。
どんな噂が広がっているか。
彼は、知らないのだろうか。
それとも――知っていて、気にしないのか。
(……聞けない)
怖くて。
もし、「どうでもいい」と言われたら。
私は、きっと立ち直れない。
食事は、また無言のまま終わった。
◇
部屋に戻ると、私はベッドに座り込んだ。
「……私は、必要ないんだ」
ぽつりと、こぼれる。
妻としても。
女性としても。
ただの、飾り。
噂の通りの存在。
窓の外には、月が浮かんでいる。
あんなに綺麗なのに、今はただ、遠い。
私は、胸に手を当てた。
ここが、ずっと痛い。
そして、初めてはっきりと思った。
(……このままじゃ、いけない)
ここにいても、私は傷つくだけ。
いつか、きっと――
もっと、深く。




