第2話 忘れられた誕生日
朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
淡い金色に染まる天蓋を見つめながら、私はゆっくりと瞬きをする。
「……今日、なのね」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
今日は、私の誕生日。
二十歳になる日。
本来なら、家族に祝われて、大切な人に微笑まれて――そんな未来を、昔は夢見ていた。
でも、今は。
私は静かにベッドを降り、身支度を整えた。
淡い色のドレス。
控えめな髪飾り。
少しだけ、いつもより丁寧に身支度をする自分が、情けなくて、苦笑してしまう。
(期待しないって、決めたのに)
鏡の中の私は、どこか落ち着かない顔をしていた。
◇
朝食の時間。
私は、いつも通り食堂へ向かった。
白いクロス。
磨かれた銀食器。
静まり返った空間。
向かいの席には、すでにレオンハルト様が座っている。
「おはようございます」
「……ああ」
短い返事。
視線は書類の上。
私を見ることはない。
昨日と、何ひとつ変わらない。
胸の奥が、ひくりと痛んだ。
(……今日くらいは、って思ってた)
馬鹿みたい。
私はスープを一口含み、視線を伏せた。
湯気が、少しだけ目にしみる。
食事は終始無言のまま進み、やがて彼は席を立った。
「失礼する」
それだけ言って、足早に去っていく。
私は、取り残されたように、その背中を見送った。
(……やっぱり)
何もない。
今日も、ただの一日だ。
◇
午前中は、部屋で刺繍をして過ごした。
白い布に、小さな花を縫い込む。
同じ作業の繰り返し。
余計なことを考えないために、針に集中する。
昼前、ノックの音がした。
「奥様、失礼いたします」
マリアが紅茶を運んできてくれる。
カップを置いたあと、彼女は少しだけ迷うようにしてから、そっと口を開いた。
「……お誕生日、おめでとうございます」
私は、思わず針を落とした。
「……覚えていてくれたの?」
「はい。記録で知りまして」
にこりとした笑顔。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「ありがとう……」
声が、少し震えた。
マリアは、小さな包みを差し出した。
「ささやかですが……」
中には、淡い水色のハンカチ。
丁寧な刺繍が施されている。
「……こんな……」
「奥様に、似合うと思って」
私は、それを両手で包むように受け取った。
「大切にするわ」
本当に、そう思った。
この屋敷で、私を気にかけてくれる、たった一人の存在。
◇
午後、庭園を歩いていると、違和感に気づいた。
いつもより、人が多い。
門のそば。
回廊の影。
木陰。
見慣れない騎士の姿が点在している。
「今日は警備が厳しいわね」
「何かあるのかしら」
使用人たちの小声も聞こえた。
(……公爵様の仕事関係、よね)
私は、そう思うことにした。
私には、関係ない。
そう思わなければ、胸がざわついてしまう。
◇
夕方、廊下を歩いていると、執務室の前で足が止まった。
「警備は予定通りだな」
「はい。配置も完了しています」
中から聞こえる、低い声。
レオンハルト様だ。
「余計な騒ぎは起こすな」
「承知しました」
淡々としたやり取り。
内容は分からない。
でも、なぜか心が落ち着かなかった。
私は、そっとその場を離れた。
◇
夜。
自室に戻ると、テーブルの上には、すでに夕食が整えられていた。
白いクロスの上に並ぶ、銀の蓋付きの皿。
いつもより、明らかに数が多い。
そっと、一つずつ蓋を開けていく。
香草を添えたロースト肉。
彩り豊かな前菜。
湯気を立てる濃厚なスープ。
焼きたてのパン。
そして、小さなケーキ。
「……え……?」
一人分とは思えないほど、豪華な食事。
しばらく、それを呆然と見つめてから――ふと、胸に浮かぶ。
(……もしかして)
昼間の、マリアの笑顔。
『お誕生日、おめでとうございます』
(マリアが……お願いしてくれたのかしら)
料理長に。
「今日は奥様のお誕生日なので」って。
そんな姿を想像してしまって。
胸の奥が、じんわり温かくなった。
「……ふふ」
久しぶりに、自然に笑ってしまう。
嬉しい。
本当に、嬉しい。
たった一人でも、私のことを思ってくれる人がいる。
それだけで、今日は意味のある日だった。
私は、そっと椅子に腰掛けた。
ナイフとフォークを手に取る。
肉は柔らかく、スープは温かい。
「……おいしい」
小さく呟く。
でも、その言葉は、すぐに静かな部屋に吸い込まれた。
向かいの席は、空いたまま。
誰もいない。
――最初から、ここに座る人はいない。
胸の奥の温かさが、ゆっくり冷えていく。
(……やっぱり)
これは、マリアの優しさだ。
レオンハルト様じゃ、ない。
私は視線を落とし、静かに食べ続けた。
豪華で、完璧な食事。
なのに。
「……味、分からない……」
ぽつりと、零れる。
誕生日なのに。
こんなにも恵まれているのに。
いちばん欲しい人だけが、いない。
食後、ナプキンを膝に置いたまま、私はしばらく動けずにいた。
テーブルの上に残った、小さなケーキを見つめる。
「……ありがとう、マリア」
誰にも聞こえない声で、そう呟いた。
◇
深夜。
公爵邸の外れでは、静かに騎士たちが巡回していた。
「異常なし」
「問題ありません」
低い報告が、夜に溶ける。
遠くの廊下を、黒い外套の男が一人、無言で歩いていた。
足音は静かで、迷いがない。
彼は一度だけ、上階の窓を見上げた。
淡く灯る、小さな明かり。
そこに誰がいるのか。
何を思っているのか。
――それを知る者はいない。
男は何も言わず、踵を返した。
その背中は、相変わらず冷たく、近寄りがたかった。
その夜。
エリシアは、ひとりきりで泣き疲れ、眠りについた。




