第19話 はじめての夜
部屋に入った瞬間、空気が変わった気がした。
同じ屋敷。
同じ廊下。
同じ扉。
けれど――今夜だけは、全部が違う。
私の左手の薬指で、新しい指輪が静かに光っている。
それを見るたびに胸の奥が熱くなって、呼吸の仕方を忘れそうになる。
レオンハルトは先に部屋へ入った私の後ろで、扉を静かに閉めた。
鍵がかかる音はしない。けれど、外の世界と切り離された感じがした。
振り返ると、彼がそこにいる。
いつも通りの黒い軍服ではない。
執務の疲れもない。
戦場の匂いもしない。
ただ、私の夫として――この部屋にいる。
「……寒くないか」
第一声がそれなのが、なんだか可笑しくて、泣きそうになる。
「大丈夫です」
「……ならいい」
そう言いながらも、彼は私の肩にそっとショールを掛けた。
優しい手つき。けれど、指先はわずかに迷っている。
私は気づいてしまう。
(……レオンハルト、緊張してる)
あんなに堂々と指輪を差し出して、あんなにまっすぐ「愛している」と言ったのに。
今は、ほんの少しだけ不器用な男の顔をしている。
……可愛い。
なんて思ったら、負けだ。
◇
寝室は淡い香りに満ちていた。
花瓶の白い花。
柔らかい灯り。
丁寧に整えられたシーツ。
私が知らないうちに、ずっと前から用意されていたみたいに、完璧な夜の部屋だった。
「……用意、してくれてたんですね」
ぽつりと言うと、レオンハルトは一瞬だけ目を逸らした。
「……不快なら、すぐに変えさせる」
「不快じゃないです」
即答すると、彼の喉が小さく鳴った。
彼は、私から目を離さずに言う。
「……俺は、君を困らせたくない」
「……困らされてません」
「……本当に?」
低い声。
確認するみたいに、慎重に。
私は薬指の指輪に触れた。
「私は……ずっと、こういう夜が怖かったんです」
言った瞬間、胸が締めつけられた。
三年間の沈黙。
触れられない距離。
「私に興味がない」と思い込んだ日々。
レオンハルトの表情が、痛そうに歪む。
「……すまない」
その言葉が、今はもう痛くない。
むしろ、胸の奥をほどく鍵みたいだった。
「でも今は……怖いより、信じたいが勝ってます」
彼の瞳が揺れる。
「君は、強いな」
「……強くなったんです」
私は少しだけ笑った。
「だって、三年間ずっと、あなたのことが好きだったから」
その瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
「……今、なんて言った」
「好きでした」
同じ言葉を、もう一度言う。
「ずっと。ずっとです」
レオンハルトは、言葉を失ったように私を見つめたまま動かない。
私は、少しだけ意地悪をしたくなった。
「……信じられない顔してます」
「信じられないわけじゃない」
即答。
その速さがずるい。
「ただ……胸が、追いつかない」
「……追いついてください」
「努力する」
真顔で言うものだから、私は吹き出してしまった。
◇
笑った私を見て、レオンハルトの肩から力が抜けた。
その瞬間、彼の雰囲気が柔らかくなる。
「……エリシア」
名前を呼ばれるたび、心臓が跳ねる。
今も。
「はい」
レオンハルトは、一歩近づいた。
私は反射的に、息を止めた。
彼の手が伸びて、私の髪に触れる。
ひと房を指に絡めて、ゆっくりとほどく。
「……綺麗だ」
囁き声。
褒められることに慣れていない私は、視線を逸らしてしまう。
「……今さら、です」
「今さらじゃない」
彼は間髪入れずに言った。
「今まで、言わなかっただけだ」
胸が熱くなる。
言わなかっただけ。
そんな理由で、私は三年も迷子になっていたのか。
(……もう、怒れない)
怒るより、いま彼の声をひとつでも多く聞きたい。
レオンハルトは私の顎に指を添え、逸らした視線をそっと戻した。
「……目を見て言いたい」
青い瞳が近い。
「君がここにいることが、まだ夢みたいだ」
そんなことを言う人だっただろうか。
氷の公爵。
無表情で、冷たい人。
――全部、私の勘違いだった。
この人は、ずっと不器用で、ずっと優しかった。
彼は私の額に口づけた。
次に、頬。
最後に、唇。
触れるだけの、慎重なキス。
でも、その丁寧さが甘くて、胸の奥が溶けそうになる。
唇が離れても、彼は私の顔のすぐ近くにいる。
「……大丈夫か」
「……大丈夫です」
声が震える。
自分でも分かるくらい。
レオンハルトは、私の震えを見逃さなかった。
「やめようか」
「やめないでください」
言った瞬間、自分でも驚く。
でも本心だった。
彼の瞳が、ほんの少しだけ柔らかく細くなる。
「……命令みたいだな」
「命令です」
私がそう言うと、彼は小さく息を吐いた。
笑っているみたいに。
「……承った」
その言い方。
キスの時もそうだった。
ずるい。可笑しい。甘い。
◇
レオンハルトは私の腰に腕を回し、そっと抱き寄せた。
抱きしめられる。
強すぎない。
でも、逃げられない確かな力。
私は胸元に顔を埋めて、彼の鼓動を聞いた。
どくん。
どくん。
……早い。
(レオンハルトも、同じなんだ)
自分だけがこんなにうるさいわけじゃない。
彼も、同じくらい――この夜に緊張している。
それが、嬉しい。
私は顔を上げて、彼の頬に触れた。
「レオンハルト」
「……なんだ」
「……ちゃんと、私のこと、好きなんですよね?」
言ってから、恥ずかしくなる。
子どもみたい。
確認しないと不安になるなんて。
でも、彼は馬鹿にしなかった。
私の指を握って、薬指の指輪にそっと口づけを落とす。
「君が嫌がることはしない」
まっすぐな声。
「怖いなら、怖いと言っていい」
「……怖いって言ったら」
「抱きしめるだけで終わる」
「……それは、それで」
私が小さく言うと、彼の眉がわずかに動いた。
「……不満か?」
「不満じゃないです。でも……」
私は言葉を探す。
「……欲張りになってしまう」
たった一回のキスで、心は満たされるはずだったのに。
抱きしめられたら、それだけでよかったのに。
今は、もっと欲しくなる。
もっと近く。
もっと、私だけのものだと確かめたい。
レオンハルトの目が、少しだけ熱を帯びる。
「……欲張りでいい」
低い声。
「君が欲しいと言うなら、俺は全部あげたい」
胸がきゅっと鳴った。
(この人、たまに……破壊力が高い)
私は言い返せなくなって、ただ頷いた。
◇
彼は私を抱き上げた。
「え……!」
反射的に彼の肩に手を置く。
「れ、レオンハルト……歩けます!」
「……今日は歩かせたくない」
「な、なぜ……」
彼は真顔で言った。
「転びそうだから」
……ずるい。
それ、ずるい。
私は、思わず笑ってしまった。
「私、もう転びません」
「転んでもいい」
「え?」
「その時は、抱きしめる」
淡々と言い切るから、余計に甘い。
私は、彼の首にそっと腕を回した。
自分から。
逃げないために。
寝台に下ろされると、柔らかいシーツが背中を受け止めた。
レオンハルトは私の横に座り、私の髪を指で梳いた。
「……綺麗だ」
また同じ言葉。
「さっきも言いました」
「何度でも言う」
「……何回でも?」
「君が飽きるまで」
そんなの、飽きるわけがない。
私は、頬が熱くなるのを感じながら、彼の手を握った。
「じゃあ……飽きないようにしてください」
レオンハルトの目が、驚いたように見開かれる。
そして――少し遅れて、耳が赤くなる。
「……難題だ」
「頑張ってください」
「……頑張る」
真面目に答えるから、私はまた笑ってしまった。
◇
レオンハルトは、私の指輪に触れた。
「……これ」
薬指の宝石が、灯りに揺れる。
「君が嫌なら、外してもいい」
「嫌じゃないです」
「……なら」
彼は指輪を撫で、私の手の甲に口づけた。
「俺は、君の“契約”を終わらせたかった」
低い声。
「期限があるものは、いつか終わる」
私は、静かに息を吸った。
「……三年目の契約。あれは、私の心を壊しました」
レオンハルトの眉が、きゅっと寄る。
「……すまない」
「でも」
私は彼の頬に触れた。
「今は、救われてます」
彼が目を伏せる。
「……救われているのは、俺の方だ」
そして、私の手を胸元に当てた。
心臓の音が伝わる。
熱い。
生きている音。
「君がいなくなると思った時、初めて分かった」
「……何がですか」
「俺は、君がいないと息ができない」
その言葉に、涙が出そうになる。
甘いだけじゃない。
深い。
私は、彼の胸に額を寄せた。
「じゃあ……もう二度と、置いていかないでください」
「置いていかない」
「離さないでください」
「離さない」
ひとつずつ、約束を重ねるみたいに。
レオンハルトは私の額に口づけた。
次に、瞼。
頬。
唇。
今度は、少しだけ長く。
少しだけ深く。
触れるたび、私は自分が溶けていくのを感じた。
でも怖くない。
この人の優しさが、全部を包んでくれるから。
◇
やがて彼は、私の手を握ったまま囁いた。
「……今夜、君の不安を全部消したい」
胸がきゅっと鳴る。
「消えますか?」
「消えるまで、何度でも言う」
「……何を?」
レオンハルトは、私の耳元に口を寄せた。
「愛している」
熱が、全身に広がる。
もう一度。
「愛している」
さらに。
「ずっと、君を選ぶ」
私は息を呑んで、彼の服をそっと掴んだ。
「……私も」
声が震える。
「私も、あなたを選びます」
レオンハルトが小さく息を吐いて、私を抱きしめた。
強くない。
でも、ほどけない。
私はその腕の中で、やっと気づく。
(……ああ)
欲しかったのは、特別な夜じゃない。
“私は愛されている”と、疑わなくていい場所。
レオンハルトの腕の中は、きっとそれだ。
◇
灯りが少しだけ揺れた。
窓の外で風が鳴り、屋敷のどこかで遠い時計の音がする。
レオンハルトは、私の髪を撫でながら言った。
「……眠れなくなったら、言え」
「……どうしてですか」
「抱きしめる」
「それ、さっきも言いました」
「何度でも言う」
「……ずるいです」
「ずるくてもいい」
彼は、珍しく少し笑った。
「君が可愛いから」
心臓が止まりそうになった。
「……いま、何て」
「聞こえたなら十分だ」
逃げた。
この人、こういう時だけ逃げる。
私は少しだけむっとして、彼の袖を引いた。
「もう一回」
レオンハルトが固まる。
「……命令か?」
「命令です」
彼は観念したように息を吐いて、私の額に口づけた。
「……可愛い」
今度はちゃんと、逃げずに言ってくれた。
私は、泣きそうになりながら笑った。
「……あなたも」
「俺は可愛くない」
「可愛いです」
「……反論する」
「だめです」
「……承った」
またそれ。
私は笑いながら、彼の胸に顔を埋めた。
甘くて、あたたかくて。
私はようやく、三年分の孤独がほどけていくのを感じた。
はじめての夜は、激しいものじゃなくていい。
私たちには、私たちの速度がある。
確かめるように、何度も抱きしめ合って。
何度も名前を呼び合って。
「ここにいる」と言い合うだけで、心が満たされていく。
レオンハルトが、最後に小さく囁いた。
「……おやすみ、エリシア」
私は頷いた。
「おやすみなさい。……レオンハルト」
彼の腕が、さらに少しだけ強くなる。
――離さない。
その誓いみたいに。
そして私は、甘い確信の中で目を閉じた。
これから先の朝は、もう冷たくない。
きっと、優しい。
◇
夜は静かに更けていく。
私の薬指の指輪が、暗い部屋の中で小さく光った。
まるで、
「やっと、ここまで来たね」
と笑っているみたいに。




