第18話 指輪の意味
夕暮れの王都は、やさしい橙色に染まっていた。
石畳に落ちる影は長く伸び、通りを歩く人々の声も、どこか穏やかだ。
私は、レオンハルトの隣を歩いていた。
――いつもより、ゆっくり。
彼の歩幅は、今日も最初から私に合わせられている。
大股で歩けば、すぐに前に出られるはずなのに。
それをしない。
わざと、狭く。
わざと、ゆっくり。
まるで、私が置いていかれないように。
……いや。
置いていかない、と決めているみたいに。
(ほんとに、この人……)
胸がじんわり熱くなって、私は小さく息を吐いた。
「……今日は、どうして王都なんですか?」
歩きながら尋ねると、レオンハルトは一瞬だけ視線を逸らした。
「……用事がある」
「それだけ?」
「……それだけだ」
明らかに隠している。
でも、それ以上は聞かなかった。
彼が話すと決めた時に、話してくれると分かっているから。
◇
やがて、彼は足を止めた。
そこにあったのは――
白い石造りの小さな建物。
淡い水色の看板。
窓辺に飾られた花と、甘い焼き菓子の香り。
「……ここ」
私の声は、思わず震えた。
忘れようがない。
あの日。
友人と訪れた、絵本みたいなカフェ。
人生で初めて、恋に落ちた場所。
レオンハルトは、私を見つめて言った。
「覚えているか」
「……もちろん、です」
忘れるわけがない。
ここで笑って。
ここを出たあとで転びそうになって。
名前も知らない青年に抱きとめられて。
心臓が壊れそうになった日。
彼は、静かに続けた。
「俺は、あの日……任務で王都にいた」
胸が跳ねる。
「君が、この店に入るのを見た」
「……見てたんですか?」
「偶然だ」
そう言いながら、耳がわずかに赤い。
「君は……楽しそうだった」
その一言に、胸が締めつけられる。
「それが……忘れられなかった」
私は、言葉を失った。
◇
店内は、昔と変わらず穏やかだった。
午後の光。
紅茶の香り。
静かな時間。
私たちは、窓際の席に座った。
しばらく、何も話さない。
けれど、その沈黙は重くなかった。
やがて――
「……エリシア」
彼が、私を呼んだ。
「はい」
レオンハルトは、一度だけ深く息を吸った。
そして、懐から小さな箱を取り出す。
黒いベルベットの箱。
私は、指先が冷たくなるのを感じた。
「……指輪だ」
箱が、私の前に置かれる。
あの時の記憶が、蘇る。
冷たい指輪。
形式だけの誓い。
“契約”という言葉。
胸が、きゅっと縮む。
――でも。
レオンハルトは、迷いなく言った。
「これは、あの時のものじゃない」
箱が開く。
そこには、深い青の宝石。
静かで、誠実な輝き。
「……綺麗」
私が呟くと、彼は頷いた。
「君の瞳の色だ」
心臓が跳ねる。
「俺は……三年間、逃げていた」
低い声。
「君を失うのが怖いと言いながら……結局、自分が傷つくのが怖かった」
私は、唇を噛んだ。
「だから」
彼は、私をまっすぐ見つめる。
「もう、逃げない」
◇
レオンハルトは、私の手を取った。
指先が、少し震えている。
「……転びそうな君を抱きしめた、あの時からだ」
その言葉に、息が止まる。
「俺は、ずっと……君が好きだった」
世界が、静かになった。
音も。
光も。
全部が、遠くなる。
あの日。
偶然だと思っていた出会い。
運命なんて、信じていなかった私。
――全部、嘘だった。
最初から。
彼は、私を見ていた。
私は、声を震わせて言った。
「……私もです」
涙が、こぼれる。
「あの日から……ずっと」
彼の喉が、わずかに鳴った。
◇
「エリシア」
彼は、私の左手を取る。
「これは、契約じゃない」
指輪を持つ手が、ゆっくりと動く。
「俺の意思だ」
指が触れる。
「俺の人生を、君に預けたい」
私は、涙を拭って頷いた。
「……はい」
「お願いします」
その言葉は、迷いのない答えだった。
レオンハルトは、そっと指輪を嵌める。
ぴたりと馴染む。
まるで、最初からそこにあったみたいに。
彼は、私の薬指に口づけた。
「……愛している」
低く、静かな声。
でも、世界でいちばん重い言葉。
私は、彼の胸に額を預けた。
「……私も、愛してます」
◇
店を出ると、空は夕焼けに染まっていた。
私たちは並んで歩く。
彼の歩幅は、変わらない。
狭くて。
ゆっくりで。
絶対に、離さない距離。
私は指輪を見つめた。
あの日、名前も知らない青年に恋をした少女は。
今――
その人の妻として、隣を歩いている。
レオンハルトが、低く言った。
「……帰ろう」
私は微笑んだ。
「はい。おかえりなさい、ですね」
彼は、少しだけ照れたように視線を逸らした。
そして、私の手を強く握った。
――もう、離さないと誓うみたいに。




