第16話 王命断罪
その日、王城の大広間は――やけに眩しかった。
高い天井から降りそそぐシャンデリアの光。磨き上げられた大理石の床。壁一面に飾られた歴代王の肖像画。
ここは、貴族であっても「呼ばれた者」しか立てない場所だ。
私は、ドレスの裾を握りしめそうになる手を、そっと指先で抑えた。
(大丈夫。今日は、逃げない)
隣に立つレオンハルトが、私の手を取る。
強くはない。けれど、離さないという意思だけは、確かに伝わってくる。
「……緊張しているか」
低い声が耳元に落ちた。
「少しだけ……でも、平気です」
嘘ではなかった。
ここへ来るまでの私は、“自分の気持ち”を言葉にすることさえ怖かった。
けれど今は――怖いのに、立っていられる。
レオンハルト様の隣だから。
◇
大広間には、すでに貴族たちが集まっていた。
ただし、空気は――社交界の夜会のような華やかさとは違う。
これは“見世物”ではない。
王命による裁定の場。つまり、正式な公的手続きだ。
それでも視線は集まる。
「公爵閣下と奥方様……」
「最近は、お二人でお姿を見せておられるものね」
「公爵夫人が、あんなに落ち着いた表情を……」
囁き声は、決して悪意ではなかった。
むしろ驚きと、探るような興味。
――不仲説?
そんなものは、いまさら誰も口にしない。
噂は飽きられるのが早い。
そして今、彼らの関心は別のところにある。
“公爵が動いた”という事実。
“王城が呼んだ”という事実。
私は息を整える。
今日ここで裁かれるのは、私の過去ではない。
誰かが私に押しつけ続けた悪意と、歪んだ権力の使い方だ。
◇
遅れて、扉が開いた。
微かなざわめきが走る。
クラリス侯爵令嬢。
花のように艶やかなドレス、完璧な巻き髪、扇子を揺らしながら入ってくる姿は、まるで舞台の主役だ。
……けれど、今日は違う。
彼女の歩幅は、ほんの僅かに短い。
視線が、まっすぐではない。
扇子の動きが、微妙に速い。
(……焦ってる?)
私はそう気づいて、すぐに自分を戒めた。
(見下ろされていた頃の私なら、ここで怯えてた)
でも、今は――怯えない。
クラリスは、私たちに気づくと、甘い笑みを作った。
「まあ、公爵閣下。奥様。王城でお会いできるなんて光栄ですわ」
「挨拶は要らない」
レオンハルトの声は、容赦がない。
けれど私は、その冷たさが怖くなかった。
クラリスは笑みを崩さない。崩せない。
そして私へ視線を滑らせる。
「奥様は……最近、とてもお元気そうね」
その言葉に、薄い棘が潜むのが分かった。
まるで、私の中にある“ある出来事”を揺さぶるみたいに。
クラリスは、扇子で口元を隠し、囁くように言った。
「……あの日のこと、王城にまで届いているのかしら」
胸がひやりとする。
けれど、レオンハルトが一歩前へ出た。
「お前は、どこまで知っているつもりだ」
クラリスの瞳が細くなる。
「知っている、だなんて。私はただ心配して……」
「心配など、いらない」
レオンハルトの声は低い。
青い瞳が、氷のように冷たく光る。
「今日ここで裁かれるのは、お前の“心配ごっこ”ではない」
クラリスの笑みが、僅かに歪んだ。
そのとき――。
王の使者が入場した。
マントに刻まれた王家の紋章。
それを見ただけで、空気が一段と重くなる。
「これより、王命の裁定を執り行う」
静かな声が大広間を満たす。
誰もが背筋を伸ばし、息を潜めた。
◇
「公爵レオンハルト・ヴァルツより提出された訴状及び証拠に基づき、審理はすでに王の御前にて完了している」
使者は淡々と告げる。
――完了。
つまり今日この場は、判決の場だ。
逃げ道はない。
使者が書状を開き、はっきりと名を呼んだ。
「クラリス・ルーデン侯爵令嬢」
クラリスが、優雅に一礼する。
「はい。王の御前にて、身の潔白を――」
「黙しなさい」
使者の声が鋭くなる。
その一言で、クラリスの言葉は途切れた。
「あなたは王家の名を利用し、公爵家の名誉を貶め、貴族秩序を乱した。さらに――」
紙が、もう一枚めくられる。
「複数の社交の場において、公爵夫人エリシアを侮辱し、孤立させるよう誘導した記録がある」
大広間がざわめく。
けれどそのざわめきは、同情ではない。
“ついに来た”という、乾いた空気。
使者は続ける。
「また、公爵邸に仕える使用人の一部に金銭を渡し、屋敷内の私的情報を不正に入手した」
私の心臓が跳ねた。
クラリスの頬が、僅かに引きつる。
「そんな……私は、使用人にお金など――」
「受け取った者は、すでに拘束され、証言している」
使者は冷徹だった。
「受け渡しの記録、書簡、さらに金の流れを示す帳簿も押収済み。言い逃れはできない」
クラリスの目が泳ぐ。
クラリスは唇を噛み、扇子を握りしめた。
「……それは誤解ですわ。私はただ、公爵夫人のご体調が――」
「体調を気遣う者は、裏で金を渡して情報を買わない」
レオンハルトの一言が、空気を切った。
そして、ゆっくりと私を見た。
「――エリシア」
呼ばれただけで、胸の奥が熱くなる。
私は頷いた。
逃げない。
目を逸らさない。
それを見届けたように、使者が宣告した。
「よって、王命を下す」
空気が張りつめる。
「クラリス・ルーデン侯爵令嬢に対し――」
クラリスの指先が震える。
「社交界からの一定期間の追放。王都での公式行事への参加禁止。加えて、ルーデン侯爵家へ罰金および監督官の派遣を命じる」
判決が落ちた瞬間、クラリスの膝が崩れた。
「……っ、そんな……!」
扇子が床に落ち、乾いた音が響く。
それは、彼女が纏っていた“完璧”が崩れる音にも聞こえた。
誰かが息を呑む。
誰かが視線を伏せる。
でも、誰も助けない。
王命は絶対だ。
親バカで有名なルーデン侯爵も、彼女を救うことはできないだろう。
◇
使者は最後に、もう一通の書状を取り出した。
「そして、王より公爵夫人エリシアへ」
私の名が呼ばれた。
胸が締めつけられる。
私は震える手で書状を受け取り、封蝋を割った。
そこに記されていたのは、簡潔で、そして重い言葉だった。
『公爵夫人エリシア。
あなたの名誉をここに保証する。
公爵家の正統な夫人として、王国はあなたを認める。
以後、いかなる虚偽の流布も許さぬ』
視界が滲んだ。
(……私、やっと“ここにいていい”って言われた)
妻という立場は、ずっと私を縛るものだと思っていた。
“役目”のための場所だと思っていた。
だから、消えるように去ろうとした。
でも違った。
私は、本当は最初から守られてiた。
その事実が、涙になって溢れそうになる。
私は書状を胸に抱きしめた。
そのとき、レオンハルトが私の手を強く握った。
「……遅くなった」
誰にも聞こえないほど小さな声。
けれど、その一言に、三年分の後悔が詰まっていた。
私は首を振る。
「ありがとうございます」
そう言うと、レオンハルトは僅かに目を細めた。
そして。
王城の大広間。
無数の視線が集まる場所で。
彼は、ためらいなく私の額に口づけた。
短く、確かに。
大広間が、ざわりと揺れる。
でも私は、もうそれを怖いと思わなかった。
ただ、胸の奥が熱くて。
(……これが、私の居場所なんだ)
レオンハルトの手は、離れない。
まるで「ここから先は、俺が一緒に歩く」と言っているみたいに。
私は、涙を零さないように笑った。
――王命による断罪。
それは、クラリスの終わりであり。
同時に、私の“始まり”だった。




