第14話 変わる視線
王都の朝は、空気の匂いが違う。
公爵領の屋敷で感じる、湿った土と花の香りではなく、石畳が夜露を含んだひんやりとした匂い。遠くから馬車の車輪が軋む音が聞こえ、誰かの笑い声が、窓の外をさらりと流れていく。
私は、カーテンの隙間から差し込む光を見つめたまま、しばらく動けなかった。
(……本当に、来てしまった)
王都。
社交界。
私が、ずっと息を潜めるように生きてきた場所。
あの日、屋敷を出たことを、彼らは知らない。
知らない、はずだ。
それなのに、胸が落ち着かないのは――自分が、逃げたという事実を、私だけが知っているからだろう。
逃げた妻。
戻ってきた妻。
そして今日は、その戻ってきた私が、レオンハルトと並んで社交界に出る日。
考えただけで、指先が冷たくなる。
◇
「奥様、おはようございます」
マリアが、いつもより明るい声で入ってきた。大きな窓を開け、カーテンをさっと引く。光が部屋に雪崩れ込み、私は思わず目を細めた。
「……おはよう」
声が少し掠れたのが、自分でも分かった。
「緊張していらっしゃいますね?」
マリアは笑う。いつもの優しさに、今日は少し、母親のような頼もしさが混ざっている。
「そうなの。社交界って……私にとって、あまりいい記憶がないから」
言いながら、胸の奥が小さく痛んだ。
私を“白い結婚の公爵夫人”と囁き、目の前では同情の仮面を貼りつけ、背を向けた途端に笑う人たち。
私が何を言っても、耳を貸さず。
私が何をしても、価値がないと決めつける人たち。
あの場所に、私は戻る。
――でも。
「奥様」
マリアが、少しだけ真面目な顔になった。
「今日は……大丈夫です。だって、旦那様がいらっしゃいますから」
「……レオンハルトが?」
私は思わず聞き返す。
彼が、私を守る。
言葉ではわかっているのに、まだどこかで信じきれない自分がいる。
「はい。昨日も遅くまで……ドレスの最終確認をしていました」
「最終確認……?」
マリアは嬉しそうに頷いた。
「宝石の色、髪飾りの形、首元の開き具合、裾の長さ。全部、細かくです」
私の頭が、少しだけ真っ白になる。
あの人が。
あの、氷のように冷たくて、必要なことしか言わない人が。
そんな、細かいことを?
「……そんなに、気にする人だったかしら」
呟くと、マリアは笑って言った。
「奥様に関してだけ、別人みたいに気にします」
胸が、きゅっと締めつけられる。
その言葉が嬉しいのに、慣れていないせいで、どう受け止めたらいいのか分からない。
私は視線を逸らし、髪に触れた。
(……落ち着け。今日は、堂々としていればいい)
もう、逃げない。
そう決めたのだから。
◇
用意されたドレスは、淡い銀色だった。
光の加減で白にも見え、月明かりにも見える、不思議な色。胸元には小さな青い宝石が一粒、きちんと収まっている。
マリアが背中の紐を結び、髪を整え、最後に小さな髪飾りを留める。
「……綺麗」
鏡に映る自分を見て、私は小さく息を吐いた。
自分が綺麗だと言ったのではない。
ドレスが、綺麗なのだ。
「奥様の瞳の色に合わせた宝石だそうですよ」
「……私の、瞳?」
「はい。旦那様がそうおっしゃっていました」
胸が、またきゅっとなる。
私の瞳の色なんて、三年間、見ようともしなかった人が。
(……変な感じ)
嬉しいのに、くすぐったくて、少し怖い。
そんな気持ちを抱えたまま、私は扉を出た。
◇
玄関ホールに降りると、そこにレオンハルトがいた。
黒の正装に身を包み、銀髪は整えられ、いつもの軍服姿とは違う“社交界の公爵”の姿。立っているだけで周囲の空気が引き締まる。
彼は、私を見るなり、動きを止めた。
「……」
「……あの、変ですか?」
どうしても不安になってしまい、私は尋ねた。
その瞬間、彼の視線が一度だけ私の胸元の宝石に落ち、すぐに戻る。
「……変じゃない」
低い声。
それだけで終わると思った。
けれど彼は、ほんの少しだけ言葉を探すように間を置き――
「……綺麗だ」
たった一言。
胸の奥で、何かが弾けたみたいに熱くなる。
「……ありがとうございます」
声が、変に上ずった。
レオンハルトは視線を逸らした。ほんのわずかに耳が赤い。
それが見えてしまったせいで、私は逆に落ち着かなくなる。
(照れてるレオンハルト様が可愛い……)
氷の公爵が。
表情を崩さない男が。
私のことで、照れる。
なんだか、嬉しい。
◇
馬車は王都の石畳を進み、やがて王宮近くの大広間へ到着した。
扉の前はすでに貴族たちで溢れ、香水の甘い匂いと、絹が擦れる音、笑い声が混ざり合っている。
私は、一瞬だけ足がすくんだ。
けれど――
その瞬間、手を取られた。
大きくて、温かい手。
「……離れない」
レオンハルトが小さく言う。
「……はい」
私は、頷いた。
扉が開く。
――視線が、集中した。
「あら、公爵様」
「まあ……奥様もご一緒なのね」
「最近お姿を見なかったから心配していましたわ」
「お元気そうで安心しました」
次々に声をかけられ、私は戸惑う。
(……こんなに、話しかけられるものなの?)
以前は違った。
目を合わせられない。
話しかけられない。
触れれば汚れるみたいに、距離を置かれる。
なのに今日は、違う。
理由は、ひとつしかない。
私の隣に、レオンハルトがいるからだ。
手を繋いでいる。
隣を離れない。
視線を逸らさない。
それだけで――
「不仲説は嘘だったのね」
「ほら、こうして一緒に来てるじゃない」
「白い結婚だなんて、失礼な噂よ」
そんな囁きが、私の耳に届いた。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
(……噂って、こういうふうに覆るんだ)
私は、ただ黙って耐えていただけなのに。
私が何かを証明したわけでもないのに。
たった“隣にいる”だけで、空気が変わる。
それが悔しいような、ありがたいような、複雑な気持ちだった。
◇
そのとき、視線がぶつかった。
少し離れた場所。
群れの中心にいる、ひときわ派手な装いの令嬢。
クラリス侯爵令嬢。
彼女は笑っていない。
目だけが、私を刺すように冷たい。
私は、息を呑んだ。
(……見られている)
彼女はゆっくりと近づき、完璧な微笑みを貼りつけて言った。
「ごきげんよう、エリシア様」
「ごきげんよう、クラリス様」
挨拶は丁寧に。
言葉は優雅に。
でも、彼女の視線は私の手元――レオンハルトの手に絡められた指へ落ち、一瞬だけ表情が歪む。
「……ずいぶん仲がよろしいのですね」
嫌味を“ただの感想”に偽装した声。
私は言葉を探した。
でも、探している間に――
「当然だ」
レオンハルトが即答した。
クラリスの瞳が、わずかに揺れる。
「……まあ」
笑みが、少しだけ引きつった。
私は胸の奥で、わずかに息を吐いた。
(……守ってくれている)
言葉で。
立ち位置で。
態度で。
◇
音楽が変わり、舞踏の時間が始まった。
貴族たちが一斉にフロアへ移動し、スカートが花のように広がる。
私は、ふと、足元を見てしまう。
踊れる。踊れるはず。
でも、緊張で膝が固くなっている。
そんな私に、レオンハルトが手を差し出した。
「……踊るか」
その声は静かで、逃げ道がない。
「……はい」
私は、彼の手を取った。
フロアに出た瞬間、視線がまた集まる。
(……見られてる)
けれど、レオンハルトは迷いなく私を導いた。
強くて、揺るがないリード。
それでいて、無理をさせない優しさ。
ステップを踏むたび、私のドレスの裾が揺れ、光を拾ってきらめく。
耳元で、彼の低い声が落ちた。
「……怖いか」
「少し……でも」
「……俺がいる」
それだけで、足が軽くなる。
私は、顔を上げた。
青い瞳が、私だけを映している。
ああ――この人の妻でよかった。
今、心からそう思う。
◇
舞踏が終わると、次々に声をかけられた。
「素敵でしたわ」
「お似合いです」
「公爵様があんなに優しく踊るなんて……!」
私は頬が熱くなるのを感じながら、笑って頭を下げた。
すると、どこからか囁きが聞こえる。
「噂はやっぱり嘘だったのね」
「仲睦まじいじゃない」
「白い結婚なんて、誰が言い出したのかしら」
私は、ほんの少しだけ息を吐く。
(……よかった)
“同情”ではなく、“祝福”の空気。
それを、初めて味わった気がした。
◇
けれど、休憩のため廊下に出たところで、クラリスが私を呼び止めた。
「エリシア様」
「……はい」
周囲の人目が薄い場所。
彼女は、声を落とした。
「……意外でしたわ」
囁くように、毒が混ざる。
「逃げたまま、戻らないと思っていましたのに」
心臓が、ひくりと跳ねた。
――知っている。
この人だけは、知っている。
どうして?
誰が漏らした?
使用人? 門番? それとも……?
頭が回りそうで回らない。
私は言葉を失い――
「……何の話だ」
低い声が割り込んだ。
レオンハルトが、いつの間にか私の隣に立っていた。
クラリスの目が、ほんの少しだけ見開かれる。
「公爵様……」
「俺の妻は、ずっと俺のそばにいた」
冷たい声。
社交界で見せる“氷の公爵”の顔。
「くだらない憶測を、妻に向けるな」
クラリスの笑みが凍る。
「……私はただ、心配して……」
「心配の形を間違えるな」
たったそれだけで、クラリスの肩がわずかに震えた。
私は、息を止めたまま、レオンハルトの横顔を見る。
――かっこいい。
そう思ってしまう自分がいる。
守られることに、慣れていない。
でも、これが“夫婦”なのだとしたら。
私は、もう二度と手放したくない。
◇
クラリスが去ったあと、私は小さく言った。
「……彼女、どうして知って……」
「……気にするな」
レオンハルトは短く言ったが、その瞳は冷たいままだった。
気にしていないわけがない。
私を抱き寄せる腕が、わずかに強い。
彼は続けた。
「今日、ここでお前を傷つけるつもりなら……許さない」
声が低く、怒りが混ざっている。
私は、胸が熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
そして、少しだけ間を置いて。
「……俺の妻だから」
その一言が、胸の奥を満たした。
◇
会場に戻ると、空気はさらに変わっていた。
人々は私に声をかけ、レオンハルトは当然のように私を隣に置く。
誰も、彼に逆らえない。
誰も、私を軽んじられない。
それは、私が強くなったからではない。
彼が、私を守ると決めたからだ。
そして、クラリスだけが、目に見えて孤立し始めていた。
いつもなら彼女の周りには人だかりができる。
けれど今日は違う。
彼女が笑っても、誰も深く関わろうとしない。
視線が泳ぎ、距離を取る。
(……みんな、気づいてる)
彼女の“嘘”や“噂”が、危険なものだと。
私は、ぞくりとした。
ざまぁは、突然落ちるものじゃない。
こうして、じわじわと孤立が始まる。
それが、いちばん効く。
◇
舞踏会が終わり、馬車で宿へ戻る。
車内は静かだった。
外の喧噪が嘘みたいに遠い。
「……疲れたか」
レオンハルトが言う。
「少し……でも、嫌じゃなかったです」
本音だった。
怖かった。
でも、彼が隣にいると分かった瞬間、世界が変わった。
私は、そっと彼の肩に頭を預けた。
すると彼の腕が、ためらいなく私の背を抱く。
……あったかい。
昔の私は、こういう温もりを夢見て泣いていた。
今は、現実になっている。
「……エリシア」
低い声が、名前を呼ぶ。
「……はい」
「……今日は、よく頑張った」
それだけで、胸がいっぱいになる。
私は、目を閉じた。
◇
夜、部屋に戻ると、小さな箱が置かれていた。
「……これは?」
「……予備だ」
彼が淡々と言う。
箱を開けると、青い宝石のブローチが入っていた。
私の瞳と同じ色。
「……こんなものまで」
「……必要だ」
短い声。
でも、指先で私の髪をそっと整える仕草は、優しい。
「……大切にします」
「……当然だ」
彼は少しだけ照れたように視線を逸らした。
私は、笑ってしまう。
◇
夜更け。
窓辺に立つと、王都の灯りが宝石みたいに見えた。
以前の私は、ここで泣いた。
誰にも言えない孤独を抱え、静かに崩れていた。
でも今は――
背後から、抱き寄せられる。
「……離さない」
低い声。
私は、振り向かずに頷いた。
「……はい」
すると彼の腕が、少しだけ強くなる。
「……もう、二度と」
ぽつりと落ちたその言葉は、怒りじゃない。
恐れに近い。
私はそっと彼の手に触れた。
「……逃げません」
小さく言う。
彼は、何も言わなかった。
ただ、額に軽い口づけを落とした。
◇
眠る前、私はふと思った。
クラリスは、どうして私が逃げたことを知っていたのだろう。
誰かが漏らした?
それとも――最初から、彼女が仕掛けていた?
嫌な予感がする。
でも、レオンハルト様がいるから大丈夫。
彼を信じてる。




