第13話 帰還の馬車
馬車の中は、思ったよりも狭かった。
王都行きの幹線路を走る、公爵家御用達の馬車。内装は柔らかな絨毯と深紅のクッションで整えられ、外見よりもずっと快適なはずなのに。
――今の私には、落ち着けるはずがなかった。
なぜなら。
隣に、レオンハルト様が座っているからだ。
しかも。
近い。
とにかく、近い。
肘と肘が触れそうで、肩もほとんど密着していて、少し身体を動かすだけで、すぐに彼にぶつかってしまう距離。
(……なんで、こんなに近いんですか)
広い馬車なのに。席はほかにもあるのに。
彼は、なぜか当然のように私の隣に座り、そのまま動かない。
そして私は――何も言えない。
だって。
離れたいわけじゃないから。
◇
窓の外では、郊外の風景がゆっくりと流れていく。石畳の道が続き、やがて緑の丘と畑に変わる。
空は高く、雲は白い。
――平和だ。
昨日までの混乱が、嘘みたいに。
私は、膝の上で指を組みながら、そっと息を吐いた。
すると。
ふいに、指先に温かい感触が触れた。
「……っ」
反射的に肩が跳ねる。
見ると。
レオンハルトの指が、私の手の横にある。
……あるだけ。
触れてはいない。
触れてはいないけれど。
近すぎる。
近すぎて、いつ触れてもおかしくない。
(……わざと?)
そんな疑問が浮かぶ。
私は、そっと視線を上げた。
レオンハルトは、窓の外を見ている。表情はいつも通り冷静で、何も考えていなさそうに見える。
――でも。
耳が、赤い。
(……意識してる)
私だけじゃなかった。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
私は、ほんの出来心で、指を少しだけ動かした。
ほんの数ミリ。
すると。
――触れた。
指と指が、かすかに。
その瞬間。
レオンハルトの肩が、ぴくっと揺れた。
可愛い。
可愛すぎる。
私は慌てて視線を逸らした。
(……い、今の、事故です)
事故だから。わざとじゃない。
……わざとじゃないことにしておく。
◇
しばらく、無言の時間が続いた。
馬車の揺れと、車輪の音だけが響く。
その間も、私たちの指は、微妙な距離を保ったままだ。
触れそうで、触れない。
離れそうで、離れない。
耐えきれなくなったのは、私の方だった。
「……あの」
小さく声を出す。
レオンハルトが、すぐにこちらを見る。
「何だ」
即答。
反応が早すぎる。
「……疲れていませんか」
我ながら、無難すぎる質問だ。
「問題ない」
「……そうですか」
会話終了。
……終わらせたのは、あなたです。
私は困って、膝の上の手をぎゅっと握った。
何か、何か話さないと。
「……あの、戻ったら……」
「うん?」
返事が柔らかい。
……今、「うん」って言った?
いつも「何だ」なのに。
胸が跳ねる。
「……また、あの部屋に戻るんですよね」
公爵邸の、広くて静かな寝室。
思い出すだけで、少しだけ怖くなる。
レオンハルトは、少し考えてから答えた。
「……嫌か?」
真剣な声。
私は首を振った。
「……嫌じゃ、ないです」
むしろ。
あなたがいるなら、帰りたい。
でも、言えない。
「ただ……少し、緊張します」
正直に言う。
レオンハルトは、小さく息を吐いた。
「……俺もだ」
「……え?」
「……慣れていない」
そんな告白、ずるい。
氷の公爵が「慣れていない」とか。
反則だ。
◇
しばらくして、馬車が小さく揺れた。
道が少し荒れているらしい。
「……っ」
バランスを崩しかけた、その瞬間。
レオンハルトの腕が、私の肩を抱いた。
ぎゅっと。
反射的な動き。
でも、強すぎない。
守るみたいな力。
「……大丈夫か」
低い声。
近い。
近すぎる。
私は、彼の胸に軽く寄りかかる形になってしまっている。
「……だ、大丈夫です」
動こうとする。
けれど。
離れない。
腕が、緩まない。
「……そのままでいい」
囁くような声。
心臓が爆発しそうになる。
私は、動けなくなった。
◇
しばらく、そのまま揺られていた。
沈黙なのに、苦しくない。
むしろ、安心する。
私は、思い切って聞いてみた。
「……レオンハルト」
「何だ」
「……これから、どうしたいですか」
未来の話。
少し、怖い質問。
レオンハルトは、窓の外に視線を向けたまま、答えた。
「……君と、生きたい」
即答。
迷いなし。
私は、言葉を失った。
「……それだけだ」
それだけ、なのに。
重すぎる。
嬉しすぎる。
私は、涙が出そうになって、慌てて瞬きをした。
「……私も」
小さく言う。
「……あなたと、生きたいです」
レオンハルトの腕に、力がこもった。
◇
やがて、王都の門が見えてきた。
帰る場所。
かつては、寂しさしかなかった場所。
でも今は。
隣に、この人がいる。
馬車が減速する。
私は、ふと気づいた。
――私たちの手が、いつの間にか、絡まっていることに。
指と指が、自然に。
離れない。
離したくない。
レオンハルトも、それに気づいたらしい。
けれど、離さなかった。
むしろ、少しだけ強く握り返す。
私は、胸の奥でそっと笑った。
まだ不安はある。
まだ怖い。
でも。
この手があるなら。
きっと、進める。
◇
馬車が止まる。
御者の声が聞こえる。
「到着いたしました」
レオンハルトが先に降り、私に手を差し出した。
迷いのない仕草。
私は、その手を取る。
温かい。
離さない。
――もう、離れない。
公爵邸の門が、ゆっくりと開いた。
新しい日々の始まりみたいに。
私は、隣の人を見上げる。
彼は、ほんの僅かに微笑んでいた。
私だけに向けた、特別な笑みで。
その瞬間、私は思った。
(……ああ、帰ってきたんだ)
ここが、私の居場所に戻ったのだと。




