表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【連載版】白い結婚が終わるはずでしたが、無関心だった公爵様が今さら溺愛してきます  作者: 風谷 華


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

12/20

第12話 はじめての口づけ

 部屋の中は、静かだった。


 小さな窓から差し込む午後の光が、木の床に淡く広がっている。外では市場の喧騒がまだ続いているはずなのに、ここだけ時間が止まったみたいだった。

 《白梟亭》――旅人向けの古い宿。壁は少し軋み、窓枠には塗装の剥げたところがある。それなのに、不思議と落ち着く。誰の目も、誰の期待もない。私は「公爵夫人」ではなく、ただの私でいられる。


 ……はずだった。


 目の前にいる人のせいで、落ち着けるはずがない。


 レオンハルトは椅子に座っている。けれど距離は、椅子一つ分もない。膝と膝が触れそうで、息遣いが聞こえそうで、視線を上げればすぐに青い瞳とぶつかってしまう。


(……近い。近すぎる)


 三年間、あれほど遠かった人が。

 一度もこんな距離にならなかった人が。

 今は、すぐそこにいる。


 さっきまで、泣いて、話して、心をさらけ出して――市場で抱きしめられて、戻らせると言われて。頭が追いつかないまま、この部屋に連れて来られた。


 だから沈黙は、重いはずなのに。

 妙に甘くて、息が詰まる。


 私は耐えきれず、視線を逸らした。


 ……のに。


「……なぜ、目を逸らす」


 低い声が、すぐ近くで響く。鼓膜が震えるほど近い。


「え、い、逸らしてません」


 即答したけれど嘘だった。私の声は裏返りそうで、自分でも情けない。


 レオンハルトはじっと私を見る。逃げ場がない。まるで視線で捕まえられているみたいだ。


「……顔が赤い」


「……っ」


 指摘しないでほしい。恥ずかしさで、首筋まで熱が走る。


「暑いだけです」


「……暑くない」


 即否定。窓は開いていて、風も入っている。言い返せなくて私は黙った。


 沈黙。


 レオンハルトは、喉の奥で小さく息を落とした。何かを言おうとして、言葉を探している音。


「……その」


 珍しく歯切れが悪い。


「さっきの話の続きだが……」


 私は思わず姿勢を正した。背筋が勝手に伸びる。相手が公爵だった頃の癖が抜けない。


「……はい」


「……俺は」


 言葉が途切れる。彼は一度、拳を握ってから続けた。


「君に、触れる資格がないと思っていた」


 胸が、どくりと鳴った。


「……え?」


「契約の妻で。期限付きで。……だから」


 視線が逸れる。いつも人を見下ろすみたいに冷たい瞳が、今は、どこにも落ち着かない。


「……踏み込めなかった」


 それは、私が三年間ずっと抱えてきた答えと、まるで違う。


 私は、恐る恐る言葉を吐き出した。


「……嫌だったからじゃ、ないんですか」


 レオンハルトは即座に首を振った。


「違う」


 強く。迷いなく。


 ……強すぎる否定が、逆に怖い。期待してしまうから。


「……怖かった」


 また、その言葉。


「間違えたら、壊してしまいそうで」


 壊す? 私を?

 この人が?


 胸が締めつけられる。怒りのような、涙のような、熱いものが喉の奥に溜まる。


「私、ずっと……触れられないのは、私が……」


 言えなかった。「魅力がないから」って。

 「愛される価値がないから」って。


 レオンハルトの眉が僅かに動く。まるで痛みに触れたみたいに。


「……君は、違う」


 短い言葉なのに、重い。


 私は唇を噛んだ。

 信じたいのに、信じたら、壊れそうだ。


 ◇


 ふと気づけば、距離がさらに縮まっていた。


 いつの間にか、レオンハルトの片手が私の椅子の背に添えられている。まるで逃げ道を塞ぐみたいに。けれど圧迫感はない。むしろ、逃げてほしくないという意思だけがそこにある。


(……ち、近い)


 でも、嫌じゃない。

 むしろ、嬉しい。


 そんな自分が怖い。


 視線が絡む。青と金。

 お互いに逸らせない。時間が伸びる。


 彼の喉仏が、小さく上下した。

 レオンハルトが、ゆっくりと身を乗り出す。


「……エリシア」


 名前を呼ばれる。それだけで身体が震える。

 今まで呼ばれなかったぶん、破壊力が大きすぎる。


 彼の顔が近づく。

 近づいて――あと、数センチ。


(……え)


 待って。これって。

 もしかして。


 私は慌てて目を閉じた。ぎゅっと。

 心臓が暴れて、耳まで熱い。


 ……何も起こらない。


 数秒。沈黙。


(……あれ?)


 不安になって、そっと目を開ける。


 すると、目の前に困りきった顔のレオンハルトがいた。あの“氷”みたいな男が、情けないほど真剣に困っている。


「……どうすればいいか、分からない」


「……え?」


 まさかの発言に、私は固まった。


「……初めてだから」


 小さく、真顔で言われる。


 胸が、きゅっとなる。


 氷の公爵が。戦場を駆ける男が。

 キスの仕方が分からない。


 ……可愛すぎる。


 私は泣きそうになりながら、笑いそうにもなった。感情が迷子だ。


「……そんな顔をするな」


 レオンハルトが低く言う。

 でも、あなたの方が“そんな顔”してます。


「……どんな顔ですか」


「……笑いそうな顔だ」


 図星。私は慌てて口元を押さえる。


「わ、笑ってません」


「……嘘だ」


 言い切るのはずるい。私が嘘をつくと、昔からすぐ見抜くくせに。

 ――昔から? いつから?

 自分の思考がまた迷子になる。


 レオンハルトは、一度だけ目を閉じた。深く息を吸う。

 まるで戦場に入る前みたいに、覚悟を決める呼吸。


 ◇


「……じゃ、じゃあ」


 私は勇気を振り絞った。


「……ゆっくりで、いいです」


 声が震える。でも逃げない。逃げたくない。

 そう思ってしまう自分が、もう降参みたいだった。


 レオンハルトの目が僅かに見開かれる。

 そのまま、彼は慎重に言った。


「……失礼する」


 ……その言い方。

 キスに対して「失礼する」。


 ずるい。変に丁寧で、変に色っぽい。

 心臓がまた跳ねた。


 レオンハルトは、そっと私の頬に手を添えた。温かい掌。指先が、わずかに震えている。

 震えているのは、私だけじゃない。


 額が触れ。鼻先がかすめ。吐息が混ざる。


 そして――唇が、そっと重なった。


 柔らかくて。あまりに慎重で。

 まるで壊れ物を扱うみたいなキス。


 ほんの一瞬で離れる。


「……っ」


 短い。短すぎる。

 私の胸に、ぽっかり穴が開いたみたいに、物足りなさだけが残る。


 私は思わず彼を見た。


 レオンハルトの耳が、真っ赤だった。


「……だ、大丈夫か」


 大丈夫か、って。

 こっちが聞きたい。


「……大丈夫です」


 むしろ足りない。

 なんて言えるわけがない。


 沈黙。


 二人とも、動けない。


 レオンハルトが、少しだけ距離を取ろうとして――止まる。

 離れたら、また遠くなる気がして。

 私の方が勝手に怖くなってしまう。


 すると彼が、ぽつりと言った。


「……もう一度、いいか」


 反則。

 そんな言い方。


 許可を求める声なのに、私の心臓を支配している。


 私は小さく頷いた。

 頷く瞬間、自分の首筋まで赤くなるのが分かった。


 今度は、彼の方からそっと近づく。

 さっきより、少しだけ長く。

 少しだけ深く。

 それでも、優しいまま。


 唇が離れたとき、私は息が上がっていた。

 レオンハルトも、ほんの少し息が乱れている。


「……っ、」


 声にならない声が漏れる。


 彼は、私の額に軽く額を当てた。


「……確認だ」


「……何の、ですか」


 私の声も、かすれている。


「君が、ここにいること」


 胸が、いっぱいになる。

 私はそっと彼の胸に額を預けた。


 固い胸板。心臓の音。

 ほんの少し早い鼓動が、私の額に伝わる。


「……逃げません」


 小さく言う。

 言ってしまった。

 私、何を言っているんだろう。


 でも、嘘じゃなかった。


 レオンハルトの腕が、私の背中に回る。

 まだ、抱きしめるほど強くない。

 でも、確かに包む力。


「……約束だ」


 低い声。

 私は目を閉じて頷いた。


 ◇


 そのまま、少しだけ抱かれていた。


 抱きしめられる、というより。

 囲われる、という感覚に近い。


 守るために作られた檻みたいで。

 でも、その檻が温かくて、安心する。


「……レオンハルト」


 呼んでみる。

 呼んだだけで、胸がくすぐったい。


 彼の腕が僅かに強くなる。


「……何だ」


 返事が近い。

 近いのに、怖くない。


「……私、まだ信じられません」


 正直に言う。

 喜びだけに溺れたら、また突き落とされそうで。


 レオンハルトは、しばらく黙っていた。


 そして、私の髪に唇を落とした。

 頬ではなく、額でもなく――髪。


 触れるか触れないかの、とても軽いキス。


「……信じろ、とは言わない」


 低い声。


「だが、離れない」


 短い言葉。

 でも、三年間の空白を埋めるみたいに重い。


 私は小さく息を吐いた。


「……また、怖くなったら」


「言え」


「……怒りますか」


「怒らない」


 即答。


「……泣いても?」


「……泣くなとは言わない」


 レオンハルトの声が、少しだけ柔らかくなる。


「泣いたら、抱く」


 私の胸が、きゅっと鳴った。


 そういう優しい言葉を、私はずっと欲しかったのだ。


 ◇


 不意に、彼が少しだけ距離を取る。


 私が不安になりかけた瞬間、レオンハルトは私の手を取り、指先を確かめるように触れた。


「……指が冷たい」


「……緊張しているだけです」


「……緊張するな」


「……無理です」


 ぽろりと本音が落ちる。

 レオンハルトの口元が、ほんの僅かに緩んだ。


 笑った。

 氷が溶けたみたいに、一瞬だけ。


 その笑みがあまりにも珍しくて、私は目を見開く。


「……今、笑いました?」


「笑っていない」


 即否定。

 さっきの私みたい。


「嘘です」


「……嘘ではない」


 言い張るくせに、耳がまた赤い。

 私はもう、堪えきれずに小さく笑ってしまった。


 すると、レオンハルトの目が細くなる。


「……笑うな」


「だって……」


「……可笑しいなら、もう一度する」


 ……え?


 私は固まった。

 レオンハルトは真顔のまま、私の顎に指先を添える。


「口を閉じろ」


「……っ」


 命令のような口調なのに、手は優しい。

 私は反射的に唇を結ぶ。


 次の瞬間、短く、確かめるようなキスが落ちた。


 ――ずるい。


 恥ずかしさで、涙が出そうになる。


 レオンハルトは私の額にまた額を当てる。


「……今度は、笑うな」


 私は、頷くしかなかった。


 でも、笑ってしまう。

 幸せで。


 ◇


 初めての口づけは、不器用で、ぎこちなくて、優しかった。


 それでも。


 確かに、私の心に触れた。


 三年間、欲しかった温度が。

 欲しかった言葉が。

 欲しかった距離が。


 今日、少しだけ埋まった。


 まだ怖い。

 まだ信じ切れない。

 でも――


 レオンハルトの手は、今、私の手を離していない。


 私はその事実を、胸の奥にそっと抱いた。


 たとえ夢でも。

 目が覚めるまで、握り返したかった。


「……エリシア」


 レオンハルトがもう一度、私の名前を呼ぶ。


 その声に、私は小さく答えた。


「……はい」


 そして、言ってしまう。


「……もう一回、確認しても……いいですか」


 レオンハルトの目が僅かに見開かれ、次の瞬間、ゆっくりと細くなる。


「……君が言うのか」


「……だめですか」


「だめではない」


 短い返答。

 でも、どこか嬉しそうな響きが混じる。


 彼は私の頬を包み、今度は迷いなく近づいた。


 唇が重なる。

 少しだけ長い。

 少しだけ深い。


 私は目を閉じた。


 ――私たちらしい、始まりだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ