第12話 はじめての口づけ
部屋の中は、静かだった。
小さな窓から差し込む午後の光が、木の床に淡く広がっている。外では市場の喧騒がまだ続いているはずなのに、ここだけ時間が止まったみたいだった。
《白梟亭》――旅人向けの古い宿。壁は少し軋み、窓枠には塗装の剥げたところがある。それなのに、不思議と落ち着く。誰の目も、誰の期待もない。私は「公爵夫人」ではなく、ただの私でいられる。
……はずだった。
目の前にいる人のせいで、落ち着けるはずがない。
レオンハルトは椅子に座っている。けれど距離は、椅子一つ分もない。膝と膝が触れそうで、息遣いが聞こえそうで、視線を上げればすぐに青い瞳とぶつかってしまう。
(……近い。近すぎる)
三年間、あれほど遠かった人が。
一度もこんな距離にならなかった人が。
今は、すぐそこにいる。
さっきまで、泣いて、話して、心をさらけ出して――市場で抱きしめられて、戻らせると言われて。頭が追いつかないまま、この部屋に連れて来られた。
だから沈黙は、重いはずなのに。
妙に甘くて、息が詰まる。
私は耐えきれず、視線を逸らした。
……のに。
「……なぜ、目を逸らす」
低い声が、すぐ近くで響く。鼓膜が震えるほど近い。
「え、い、逸らしてません」
即答したけれど嘘だった。私の声は裏返りそうで、自分でも情けない。
レオンハルトはじっと私を見る。逃げ場がない。まるで視線で捕まえられているみたいだ。
「……顔が赤い」
「……っ」
指摘しないでほしい。恥ずかしさで、首筋まで熱が走る。
「暑いだけです」
「……暑くない」
即否定。窓は開いていて、風も入っている。言い返せなくて私は黙った。
沈黙。
レオンハルトは、喉の奥で小さく息を落とした。何かを言おうとして、言葉を探している音。
「……その」
珍しく歯切れが悪い。
「さっきの話の続きだが……」
私は思わず姿勢を正した。背筋が勝手に伸びる。相手が公爵だった頃の癖が抜けない。
「……はい」
「……俺は」
言葉が途切れる。彼は一度、拳を握ってから続けた。
「君に、触れる資格がないと思っていた」
胸が、どくりと鳴った。
「……え?」
「契約の妻で。期限付きで。……だから」
視線が逸れる。いつも人を見下ろすみたいに冷たい瞳が、今は、どこにも落ち着かない。
「……踏み込めなかった」
それは、私が三年間ずっと抱えてきた答えと、まるで違う。
私は、恐る恐る言葉を吐き出した。
「……嫌だったからじゃ、ないんですか」
レオンハルトは即座に首を振った。
「違う」
強く。迷いなく。
……強すぎる否定が、逆に怖い。期待してしまうから。
「……怖かった」
また、その言葉。
「間違えたら、壊してしまいそうで」
壊す? 私を?
この人が?
胸が締めつけられる。怒りのような、涙のような、熱いものが喉の奥に溜まる。
「私、ずっと……触れられないのは、私が……」
言えなかった。「魅力がないから」って。
「愛される価値がないから」って。
レオンハルトの眉が僅かに動く。まるで痛みに触れたみたいに。
「……君は、違う」
短い言葉なのに、重い。
私は唇を噛んだ。
信じたいのに、信じたら、壊れそうだ。
◇
ふと気づけば、距離がさらに縮まっていた。
いつの間にか、レオンハルトの片手が私の椅子の背に添えられている。まるで逃げ道を塞ぐみたいに。けれど圧迫感はない。むしろ、逃げてほしくないという意思だけがそこにある。
(……ち、近い)
でも、嫌じゃない。
むしろ、嬉しい。
そんな自分が怖い。
視線が絡む。青と金。
お互いに逸らせない。時間が伸びる。
彼の喉仏が、小さく上下した。
レオンハルトが、ゆっくりと身を乗り出す。
「……エリシア」
名前を呼ばれる。それだけで身体が震える。
今まで呼ばれなかったぶん、破壊力が大きすぎる。
彼の顔が近づく。
近づいて――あと、数センチ。
(……え)
待って。これって。
もしかして。
私は慌てて目を閉じた。ぎゅっと。
心臓が暴れて、耳まで熱い。
……何も起こらない。
数秒。沈黙。
(……あれ?)
不安になって、そっと目を開ける。
すると、目の前に困りきった顔のレオンハルトがいた。あの“氷”みたいな男が、情けないほど真剣に困っている。
「……どうすればいいか、分からない」
「……え?」
まさかの発言に、私は固まった。
「……初めてだから」
小さく、真顔で言われる。
胸が、きゅっとなる。
氷の公爵が。戦場を駆ける男が。
キスの仕方が分からない。
……可愛すぎる。
私は泣きそうになりながら、笑いそうにもなった。感情が迷子だ。
「……そんな顔をするな」
レオンハルトが低く言う。
でも、あなたの方が“そんな顔”してます。
「……どんな顔ですか」
「……笑いそうな顔だ」
図星。私は慌てて口元を押さえる。
「わ、笑ってません」
「……嘘だ」
言い切るのはずるい。私が嘘をつくと、昔からすぐ見抜くくせに。
――昔から? いつから?
自分の思考がまた迷子になる。
レオンハルトは、一度だけ目を閉じた。深く息を吸う。
まるで戦場に入る前みたいに、覚悟を決める呼吸。
◇
「……じゃ、じゃあ」
私は勇気を振り絞った。
「……ゆっくりで、いいです」
声が震える。でも逃げない。逃げたくない。
そう思ってしまう自分が、もう降参みたいだった。
レオンハルトの目が僅かに見開かれる。
そのまま、彼は慎重に言った。
「……失礼する」
……その言い方。
キスに対して「失礼する」。
ずるい。変に丁寧で、変に色っぽい。
心臓がまた跳ねた。
レオンハルトは、そっと私の頬に手を添えた。温かい掌。指先が、わずかに震えている。
震えているのは、私だけじゃない。
額が触れ。鼻先がかすめ。吐息が混ざる。
そして――唇が、そっと重なった。
柔らかくて。あまりに慎重で。
まるで壊れ物を扱うみたいなキス。
ほんの一瞬で離れる。
「……っ」
短い。短すぎる。
私の胸に、ぽっかり穴が開いたみたいに、物足りなさだけが残る。
私は思わず彼を見た。
レオンハルトの耳が、真っ赤だった。
「……だ、大丈夫か」
大丈夫か、って。
こっちが聞きたい。
「……大丈夫です」
むしろ足りない。
なんて言えるわけがない。
沈黙。
二人とも、動けない。
レオンハルトが、少しだけ距離を取ろうとして――止まる。
離れたら、また遠くなる気がして。
私の方が勝手に怖くなってしまう。
すると彼が、ぽつりと言った。
「……もう一度、いいか」
反則。
そんな言い方。
許可を求める声なのに、私の心臓を支配している。
私は小さく頷いた。
頷く瞬間、自分の首筋まで赤くなるのが分かった。
今度は、彼の方からそっと近づく。
さっきより、少しだけ長く。
少しだけ深く。
それでも、優しいまま。
唇が離れたとき、私は息が上がっていた。
レオンハルトも、ほんの少し息が乱れている。
「……っ、」
声にならない声が漏れる。
彼は、私の額に軽く額を当てた。
「……確認だ」
「……何の、ですか」
私の声も、かすれている。
「君が、ここにいること」
胸が、いっぱいになる。
私はそっと彼の胸に額を預けた。
固い胸板。心臓の音。
ほんの少し早い鼓動が、私の額に伝わる。
「……逃げません」
小さく言う。
言ってしまった。
私、何を言っているんだろう。
でも、嘘じゃなかった。
レオンハルトの腕が、私の背中に回る。
まだ、抱きしめるほど強くない。
でも、確かに包む力。
「……約束だ」
低い声。
私は目を閉じて頷いた。
◇
そのまま、少しだけ抱かれていた。
抱きしめられる、というより。
囲われる、という感覚に近い。
守るために作られた檻みたいで。
でも、その檻が温かくて、安心する。
「……レオンハルト」
呼んでみる。
呼んだだけで、胸がくすぐったい。
彼の腕が僅かに強くなる。
「……何だ」
返事が近い。
近いのに、怖くない。
「……私、まだ信じられません」
正直に言う。
喜びだけに溺れたら、また突き落とされそうで。
レオンハルトは、しばらく黙っていた。
そして、私の髪に唇を落とした。
頬ではなく、額でもなく――髪。
触れるか触れないかの、とても軽いキス。
「……信じろ、とは言わない」
低い声。
「だが、離れない」
短い言葉。
でも、三年間の空白を埋めるみたいに重い。
私は小さく息を吐いた。
「……また、怖くなったら」
「言え」
「……怒りますか」
「怒らない」
即答。
「……泣いても?」
「……泣くなとは言わない」
レオンハルトの声が、少しだけ柔らかくなる。
「泣いたら、抱く」
私の胸が、きゅっと鳴った。
そういう優しい言葉を、私はずっと欲しかったのだ。
◇
不意に、彼が少しだけ距離を取る。
私が不安になりかけた瞬間、レオンハルトは私の手を取り、指先を確かめるように触れた。
「……指が冷たい」
「……緊張しているだけです」
「……緊張するな」
「……無理です」
ぽろりと本音が落ちる。
レオンハルトの口元が、ほんの僅かに緩んだ。
笑った。
氷が溶けたみたいに、一瞬だけ。
その笑みがあまりにも珍しくて、私は目を見開く。
「……今、笑いました?」
「笑っていない」
即否定。
さっきの私みたい。
「嘘です」
「……嘘ではない」
言い張るくせに、耳がまた赤い。
私はもう、堪えきれずに小さく笑ってしまった。
すると、レオンハルトの目が細くなる。
「……笑うな」
「だって……」
「……可笑しいなら、もう一度する」
……え?
私は固まった。
レオンハルトは真顔のまま、私の顎に指先を添える。
「口を閉じろ」
「……っ」
命令のような口調なのに、手は優しい。
私は反射的に唇を結ぶ。
次の瞬間、短く、確かめるようなキスが落ちた。
――ずるい。
恥ずかしさで、涙が出そうになる。
レオンハルトは私の額にまた額を当てる。
「……今度は、笑うな」
私は、頷くしかなかった。
でも、笑ってしまう。
幸せで。
◇
初めての口づけは、不器用で、ぎこちなくて、優しかった。
それでも。
確かに、私の心に触れた。
三年間、欲しかった温度が。
欲しかった言葉が。
欲しかった距離が。
今日、少しだけ埋まった。
まだ怖い。
まだ信じ切れない。
でも――
レオンハルトの手は、今、私の手を離していない。
私はその事実を、胸の奥にそっと抱いた。
たとえ夢でも。
目が覚めるまで、握り返したかった。
「……エリシア」
レオンハルトがもう一度、私の名前を呼ぶ。
その声に、私は小さく答えた。
「……はい」
そして、言ってしまう。
「……もう一回、確認しても……いいですか」
レオンハルトの目が僅かに見開かれ、次の瞬間、ゆっくりと細くなる。
「……君が言うのか」
「……だめですか」
「だめではない」
短い返答。
でも、どこか嬉しそうな響きが混じる。
彼は私の頬を包み、今度は迷いなく近づいた。
唇が重なる。
少しだけ長い。
少しだけ深い。
私は目を閉じた。
――私たちらしい、始まりだった。




