第11話 初めての本音
宿へ向かう道は、思っていたより短かった。
けれど私には、永遠みたいに長く感じられた。
レオンハルト様は、私の手を握ったまま離さなかった。
逃げ道を塞ぐように、でも乱暴ではなく、確かめるみたいに。
市場の喧騒から離れても、胸の奥のざわめきだけが消えなかった。
(どうして……どうして今さら)
私は、三年間を思い出してしまう。
冷たい朝食。
視線を向けられない日々。
廊下ですれ違っても、透明みたいに扱われたこと。
なのに。
今はこうして、手を握られ、外套をかけられ、怪我の有無を確かめられている。
レオンハルト様は本当は優しい方なの?
でも、優しいなら、あの三年間は何だったの。
◇
《白梟亭》の一室。
宿の主人が気を利かせて、静かな奥の部屋を用意してくれた。
窓辺には小さな花瓶があり、木の机と椅子が二脚、あとは簡素なベッドだけ。
公爵邸の豪奢な寝室とは比べものにならないほど質素なのに、空気は柔らかい。
レオンハルトは扉の鍵をかけ、私を椅子に座らせた。
「……座れ」
命令みたいな口調なのに、手は慎重だった。
私は黙って頷く。
レオンハルトはしばらく、何も言わずに私を見つめていた。
青い瞳が、まっすぐで――逃げられない。
そして彼は、ようやく口を開いた。
「……怪我は本当にないな」
「……はい」
「痛いところは」
「ありません」
それでも、彼は納得しないように私の腕を見た。
さっき掴まれた場所に、赤い跡が薄く残っている。
彼の目が一瞬、鋭く細くなる。
怒り?
それとも――恐れ?
彼は指先で、その跡に触れない距離をなぞった。
まるで、触れたら壊れてしまうみたいに。
「……すまない」
突然、低い声が落ちた。
私は瞬きをする。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
だってこの人は、謝る人じゃない。
少なくとも、私に向けてそんな言葉を言ったことはない。
レオンハルトは、ゆっくりと頭を下げた。
ほんのわずか。
けれど確かに。
「……すまなかった」
もう一度。
胸が、どくんと跳ねた。
私は言葉が出なかった。
彼が顔を上げる。
表情は、いつもの“氷”ではない。
疲れているのに、必死に崩れないようにしている顔。
「俺は……君を、傷つけた」
その声が、かすかに揺れた。
私は、喉の奥が熱くなるのを感じた。
だって。
傷つけられた。
その通りだ。
でも、今さら認められたら。
今さら謝られたら。
溜め込んだものが、溢れてしまう。
「……どうして」
私は震える声で言った。
「どうして、今さらそんなことを言うんですか」
レオンハルトの眉がほんの少し動く。
私は止まれなかった。
「私、三年間……ずっと……」
言葉が詰まる。
胸が苦しくて、息が浅くなる。
「ずっと、愛されていないと思っていました」
――言ってしまった。
言った瞬間、涙が溢れた。
こんなはずじゃなかったのに。
私は静かに出ていくつもりだった。
綺麗に終わらせるつもりだった。
なのに。
レオンハルトが私の名前を呼んで、抱きしめて。
そのせいで、心の蓋が外れてしまった。
「……違う」
彼が即座に言った。
短く、強く。
「……え?」
「君は……必要だ」
その言葉に、私は一瞬、何も考えられなくなる。
必要?
私が?
――そんなはずない。
だって私は、契約の妻で。
期限付きで。
触れられることもなく。
ただ、置かれていただけで――
「嘘です」
震える声で、私は言った。
「必要なら、どうして……どうして一度も……」
名前も呼んでくれなかった。
触れてもくれなかった。
目も合わせてくれなかった。
それを言おうとしたのに、声にならない。
レオンハルトは、苦しそうに目を伏せた。
そして、拳を握る。
「……俺がそうせざるを得なかったのには、理由があった」
私は、息を呑んだ。
理由?
そんなの、聞いたことがない。
彼は続ける。
「……君のせいじゃない」
その言葉が、胸を打った。
“私が魅力がないから冷たくされていた”と思ってきた。
違うの?
私は唇を噛んだ。
「理由って……何ですか」
問いかける声は、情けないほど弱かった。
レオンハルトは答えない。
答えられないように見えた。
代わりに、椅子の背に手をつき、私の目の前に膝をついた。
公爵が。
この人が。
私の前に膝をつく。
それだけで、世界が揺れた。
「……エリシア」
名前を呼ばれる。
市場で呼ばれたのと同じ。
でも今は、もっと近い。
声が、低くて、切実で。
私は泣いたまま、彼を見下ろした。
「……君が出ていくとは思わなかった」
レオンハルトの指が、私の手に触れる。
握り込むのではなく、そっと包む。
「俺は……間違えた」
その言葉に、胸が痛くなる。
間違えた?
何を?
「君を守るつもりだった」
――守る。
その単語が、私の中で反響した。
守るって、どういう意味?
守るなら、どうして突き放したの?
問いが増えるのに、胸が苦しい。
レオンハルトは、私の手を離さずに言った。
「……今は、説明する時間がない」
私は瞬きをする。
「……え?」
「君を狙う者がいる」
その一言で、背筋が冷えた。
「……私を?」
レオンハルトの目が、鋭くなる。
「市場で絡んできた男も、偶然ではない可能性がある」
私は息を呑む。
怖い。
どうして狙われてるの?
けれど同時に、胸の奥で別の感情が膨らんだ。
(……じゃあ、三年間の冷たさは)
そのためだったの?
私は喉の奥で言葉を探した。
レオンハルトは、私の手の甲に額を寄せる。
その仕草が、あまりに優しくて。
涙が止まらなくなる。
「……怖かった」
低い声が、震えた。
「君を失うのが」
私は、言葉を失った。
怖かった?
この人が?
私を失うのが?
そんなこと、信じられないのに。
でも――
額を寄せたままの彼の背中が、僅かに揺れている。
まるで、必死に堪えているみたいに。
私は、震える手でそっと彼の髪に触れた。
艶やかな銀髪。
冷たいはずの色。
なのに、触れると温かく感じた。
「……私、戻るって言ってません」
泣きながら言う。
自分の心を守るために。
でも、弱い抵抗だった。
レオンハルトは顔を上げ、私を見つめた。
「戻ってきてくれ」
短い。
断言。
いつもの公爵の口調。
なのに、瞳だけが違う。
私を見失う恐怖が、そのまま宿っている。
「……勝手です」
「勝手でいい」
言い切る声が、ずるい。
私は、笑ってしまいそうになる。
泣いているのに。
「……どうして、そんなに」
言いかけた言葉の先を、私は飲み込んだ。
聞いたら、崩れてしまいそうだったから。
レオンハルトは、ほんの少しだけ息を吐き――
私の頬に、指先で触れた。
涙を拭う。
その手が震えていることに気づいて、胸が締めつけられた。
「……俺は」
言いかけて、止まる。
言葉にならない想いが、喉に引っかかっているようだった。
私は、その続きを待ってしまう。
けれど彼は、代わりにこう言った。
「……君の手を、二度と離さない」
その声が、静かに落ちた。
私は、目を閉じた。
胸の奥が熱くて、痛くて、どうしようもない。
まだ信じきれない。
まだ怖い。
でも。
彼の手の温度だけが、本物だった。




