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【連載版】白い結婚が終わるはずでしたが、無関心だった公爵様が今さら溺愛してきます  作者: 風谷 華


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第10話 市場の奇跡

 宿場町の朝は、思っていたより賑やかだった。


 《白梟亭》――東門から二里ほどの、旅人向けの小さな宿に、エリシアは泊まっていた。

 部屋の木の床はきしみ、窓枠には少し古い傷があった。


 けれど私は、昨夜ほとんど眠れなかったはずなのに、少しだけ呼吸がしやすいと感じていた。


 豪華な公爵邸よりずっと質素で、寒くて、狭いのに。


 ここには“公爵夫人”の椅子がない。


 誰も私に期待しない。

 誰も私を値踏みしない。


 ただの「旅人の女」として、そこにいられる。


「……落ち着く」


 自分でも驚くほど素直な言葉が、口からこぼれた。


 私は外套のフードを深く被り、宿の階段を下りた。


 今日は市場の日だと、宿の主人が言っていた。


 少しでも働き口を探そうと思った。

 手元の金は、持ち出せる範囲で用意したが――長くはもたない。


 そして何より。


(……何かをしていないと、心が折れそう)


 歩けば、考えなくて済む。

 人の声の中にいれば、孤独の音が薄まる。


 私はそうやって、三年間を耐えてきたのだ。


 ◇


 市場は、香りと音で満ちていた。


 焼きたてのパンの匂い。

 果物の甘い香り。

 肉を焼く脂の匂い。


「安いよ! 今朝採れたばかりだ!」

「こっちは香草! 煮込みに入れりゃ最高だ!」


 呼び声が飛び交い、子どもたちが笑いながら走り回る。


 馬車の轍。

 人々の靴音。

 袋を持った手が行き交う。


 ――“普通の生活”。


 公爵邸では決して聞こえなかった、息づく世界の音。


 胸の奥が、じんわり温かくなる。


(……私も、こういう場所に来てよかったんだ)


 私は屋台を眺めながら歩いた。


 野菜を並べる老婆の手。

 笑いながら値段交渉をする夫婦。

 焼き菓子を頬張る子ども。


 そのどれもが、眩しい。


 そして同時に、少しだけ苦しい。


 私はこの三年間、どこにも属していなかった。


 豪華な屋敷にいても。

 公爵夫人の肩書きがあっても。


 私はいつも、外側だった。


 ◇


 布の屋台の前で足を止めた。


 柔らかな布地のスカーフが、風に揺れている。


 淡い水色。


 私はその色に、胸がきゅっとなった。


 ――昔、王都で見たカフェの看板の色。


 白い石造りの建物に、淡い水色の看板。

 窓辺の花。

 焼き菓子の香り。


 あの日――転びそうになった私を支えた、銀髪の青年。


『怪我はないか』


 その一言で、心臓が跳ねた。

 

 まるで、その声だけが世界に残ったみたいで。

 私の時間が、止まった気がした。


 名前も知らないのに。

 身分も知らないのに。


 なのに私は、いつもその背中を探してしまった。


 ……そして、その人が夫になる奇跡が起こった。


 でも、もう終わったことだ。


(……馬鹿ね)


 思い出してしまう。


 “好きだった”という事実だけが、胸の奥で温度を持つ。


 今はもう、終わったはずなのに。


 ◇


「――そこの嬢ちゃん」


 低い、荒い声。


 現実が、唐突に割り込んできた。


 私は振り向くより先に、腕を掴まれた。


「きゃ……!」


 指が食い込むほど強い力。


 旅装の男だった。

 酒と汗の匂い。


「ずいぶん上玉じゃねえか。ひとりか?」


「は、離してください……!」


 私は身をよじった。


 けれど力では敵わない。

 人混みの中で、声が吸い込まれていく。


 周囲の喧騒が、遠く感じられる。


(……助けて)


 喉まで出かかったのに、声にならなかった。


 私は今、誰でもない。

 公爵夫人でもない。

 守ってくれる立場でもない。


 ただの女だ。


 男の指が、さらに強く腕を引いた。


「大人しく――」


 その瞬間。


「――手を離せ」


 凍りつくような低い声が、空気を切った。


 男の動きが止まる。


 次の瞬間、男の手首を“別の手”が掴んだ。


 鋼みたいに硬い力。


「な、なんだお前は――」


 言い終える前に、男の身体が宙を舞った。


 鈍い音。


 地面に叩きつけられ、男が呻く。


 周囲がざわめいた。

 人々が距離を取り、円ができる。


 私は、呆然と顔を上げた。


 そこにいたのは――


 銀髪の男。


 黒い外套。

 騎士のような立ち姿。


 息を切らしながら、それでも視線だけは鋭く、ただ一点を射抜いている。


 ――見慣れた背中。


 いいえ。


 この三年間、何度も見てきた背中。


「……レオン、ハルト……様?」


 声が震えた。


 自分でも信じられないほど。


 彼は、ゆっくりと振り返った。


 青い瞳が、私を捉える。


 その瞬間――彼の表情が、音を立てて崩れた。


 いつもの氷の仮面が割れるように。


 焦りと、安堵と、切実さがむき出しになる。


「……エリシア」


 その名を呼ぶ声は、今まで聞いたことがないほど、必死だった。


 私は息を呑んだ。


 名前を呼ばれただけで、胸の奥が痛いほど満たされる。


 そんな自分が、悔しい。


 嬉しい。


 怖い。


 全部が一緒に押し寄せる。


「……どうして、ここに……」


 言い終える前に。


 視界が、暗くなった。


 強く、強く抱きしめられる。


 腕が回り、背中が押し付けられ、息が苦しいほどに距離がなくなる。


 温かい。


 熱い。


 ――三年間、欲しかった温もりが、ここにある。


「……離すな」


 耳元で、掠れた声が震えた。


「二度と、俺の前から消えるな……」


 私は、息ができなかった。


 苦しいのに、離れてほしくない。


 心が追いつかない。


 涙が、勝手に溢れた。


「……っ、私は……」


 声にならない。


 彼の腕は、さらに強くなる。


 まるで、失ったことが信じられないみたいに。


 まるで、今ここで離したら、また消えてしまうと思っているみたいに。


 周囲のざわめきが遠い。


 私は、ただその胸の中で、震えていた。


 ◇


「閣下!」


 遠くで、誰かが叫んだ。


 騎士が駆けてくる気配。


 レオンハルトの側近――ギルバートだ。


 レオンハルトは、男を見下ろし、低い声で命じた。


「連れていけ」


 その声には、容赦がなかった。


 男は引きずられながら、悪態をついた。


「なんだよ……! ただの女だろ!」


 ――ただの女。


 その言葉が、私の胸に刺さるより早く。


 レオンハルトが、氷のような声で言い放った。


「俺の妻だ」


 空気が、凍った。


 周囲の視線が、私に集まる。


 私は、何も言えなかった。


 “妻”。


 その言葉は、私が三年間欲しかったものだったのに。


 今は、胸が痛い。


 だって私は、もう――去ったはずだから。


 彼は私を抱きしめたまま、耳元に低く囁いた。


「……歩けるか」


「……はい」


 震える返事。


 彼は私の肩に外套をかけ、身体を自分の方へ引き寄せた。


 離れる隙がない。


 逃げられない。


 その事実に、心臓がうるさい。


 ◇


 市場の裏手へ移動すると、少しだけ静かになった。


 石壁に囲まれた小さな裏道。

 木陰に、柔らかな光が落ちている。


 レオンハルトは、私の両肩を掴み、真剣な顔で見下ろした。


「……怪我は」


「……ありません」


 その確認の仕方が、優しすぎて苦しい。


 私は視線を逸らした。


 だって、見てしまったら。

 この温もりに縋ってしまったら。


 私は――戻ってしまう。


「……どうして、ここが分かったんですか」


 精一杯、平静を装って問う。


 彼の瞳が揺れた。


 答えが出ないように見えた。


 それでも彼は、低く言った。


「……探した」


 ただ、それだけ。


 たった二文字が、胸の奥を熱くした。


 探した。


 私を?


 私は、笑いたくなった。


(遅いのに)


 三年間、私がどれほど孤独でも、見向きもしなかったのに。


 なのに今さら。


 ――なのに、こんなにも嬉しい。


 悔しくて、涙がまた溢れた。


「……私、もう……」


 言いかけた瞬間、視界が滲んで言葉が途切れた。


 レオンハルトの指が、私の頬の涙を拭った。


 触れられた瞬間、身体がびくりと震える。


 彼の手は熱かった。


 冷たいはずの公爵の手が。


 こんなに。


 ◇


 レオンハルトは、息を吸った。


 そして、まるで自分に言い聞かせるように言った。


「……帰るぞ」


「……え?」


「ここは危険だ」


 それは正しい。


 でも、私の心は追いつかない。


 帰る?


 公爵邸へ?


 私はもう、戻らないと決めたのに。


 レオンハルトは、私の返事を待たなかった。


 私の手首を掴むのではなく――掌を包み込むように握り、歩き出す。


 その握り方が、優しすぎて。


 私は、抵抗できなかった。


 ◇


 宿へ向かう道の途中。


 私は、ふと気づいた。


 レオンハルトが、何度も周囲を確認していることに。


 人の流れ。

 建物の影。

 路地の奥。


 まるで、何かを警戒している。


(……どうして)


 問いかけが浮かぶ。


 でも今は、聞けなかった。


 私はただ、手の温度だけを確かめるように握り返した。


 レオンハルトの指が、僅かに強く絡む。


 逃がさない、と言われているみたいだった。


 胸が、痛いほど鳴った。



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