第1話 冷たい朝食と、愛されない妻
※本作は、すれ違いから始まる夫婦の再生と溺愛を描いた物語です。
前半は切なく、後半はたっぷり甘くなります。
2/16完結予定・ハッピーエンド保証です。
安心して、ゆっくりお読みください。
三年間――。
それが、私がこの公爵邸で「妻」として過ごしてきた時間だった。
けれど、その三年間に、私は一度も――夫に抱きしめられたことがない。
触れられたことも。
名前を、優しく呼ばれたことも。
……一度も。
「おはようございます、公爵様」
朝食の席で、私はいつものように頭を下げた。
白いクロスの長いテーブルの、遥か向こう側。銀のカトラリーが整然と並び、紅茶の湯気が薄く揺れている。
そこに座るのは、夫であるレオンハルト・ヴァルツ公爵。
整った銀髪に、冷たい青い瞳。
社交界では“氷の公爵”と呼ばれる人。
――けれど、私にとっては。
「夫」ではなく、「同じ屋敷に住む他人」みたいな人だった。
「……ああ」
返ってきたのは、それだけ。
視線すら、こちらに向けられない。
彼は淡々と紅茶を口にし、書類へ目を落としたまま、朝の光の中に静かに溶けている。
私の存在など、最初からなかったかのように。
……いつものこと。
今さら、傷つくこともない。
そう思っていたはずなのに。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる痛みだけは、毎朝、律儀にやって来る。
私は音を立てないようにパンをちぎり、スープを口に運ぶ。
食器の触れ合う小さな音が、広い食堂では妙に目立った。
(……私、何をしているんだろう)
公爵夫人として。妻として。
相応しくあれと教えられてきた。
だから、笑う。
姿勢を正す。
余計なことは言わない。
――その結果が、この沈黙だ。
レオンハルト様は、手元の書類に一度も迷わない目を落としたまま、ほんの少し眉を寄せた。
インクの匂いと、紙をめくる音。
戦争でも始まるみたいに、彼の朝はいつも忙しい。
私はそっと息を吸った。
本当は、聞きたいことがある。
……昨夜は眠れましたか、とか。
今日の予定は、とか。
そんな些細なことを、夫婦の会話として、口にしてみたい。
けれど、何度も試して、何度も――氷の壁に弾かれてきた。
『用件は?』
『それは執事に』
『今は忙しい』
淡々とした声。
淡々とした拒絶。
それが積もって、今の私は「話しかけない妻」になっていた。
話しかけなければ、傷つかない。
期待しなければ、惨めにならない。
……本当は、嘘だと分かっているのに。
「奥様」
料理長がそっと近づいて、追加のパンを置いた。
「本日は、蜂蜜の焼き菓子もご用意しておりますが……」
「ありがとうございます。後ほどいただきますね」
声は自然に出た。笑みも作れる。
“公爵夫人”の仮面は、だいぶ上手に被れるようになった。
レオンハルト様は、料理長の声にも顔を上げない。
ただ、ペン先が紙の上を走る音だけが、規則正しく続いた。
(私は、透明だ)
この屋敷にいても。
この食堂にいても。
この席に座っていても。
――私は、いないのと同じ。
そう気づいた瞬間の痛みを、私はもう「慣れ」と呼ぶしかなかった。
食事を終えると、私はナプキンを畳み、椅子を静かに引いた。
「ごちそうさまでした。公爵様、本日も――」
言いかけて、飲み込んだ。
“お気をつけて”と続けるのは、私の役目だ。
けれどそれを言っても、返事がないと知っている。
沈黙に自分の言葉が落ちていくのが、ただ怖かった。
私は頭を下げて、食堂を出た。
背中に、視線は刺さらない。
扉の向こうに出て、ようやく息を吐けた。
廊下の窓から差し込む朝の光が、絨毯の赤を柔らかく照らしている。
遠くで掃除の音がして、使用人たちの小さな声が聞こえた。
私は自室へ戻るため、静かな廊下を歩く。
ふと、曲がり角の先から、革靴の足音が近づいてきた。
心臓が跳ねる。
(……レオンハルト様)
廊下で鉢合わせすることは、そう多くない。
だからこそ、毎回、私は身の置き場がなくなる。
振り返らず、ただすれ違うだけの人。
けれど、私は無意識に、背筋を伸ばしてしまう。
角を曲がった瞬間、黒い外套が視界を横切った。
レオンハルト様が、部下らしき男と共に歩いてくる。
凛とした空気。
戦場のような緊張をまとった横顔。
私は反射的に立ち止まり、端へ身を寄せた。
「……おはようございます、公爵様」
また、いつもの挨拶。
けれど彼は、私を見ることなく通り過ぎた。
視線が合わない。
声をかけても、空気に溶ける。
――まるで、私が壁の飾りと同じ扱いみたいに。
そのまま通り過ぎていく背中を見送りながら、胸の奥が、ゆっくりと冷えていくのが分かった。
廊下の空気が、さっきより冷たい。
私は指先を握りしめた。
(……大丈夫)
大丈夫だと、言い聞かせる。
そうしていないと、涙が落ちてしまいそうだった。
自室に戻ると、窓辺の花瓶の白薔薇が静かに揺れていた。
この屋敷の花は、いつも完璧に美しい。
枯れかける前に取り替えられ、香りも途切れない。
――私は、どうだろう。
枯れかけても、誰も取り替えてくれない。
香りが消えても、誰も気づかない。
私は鏡の前に立った。
淡い金髪に、控えめな顔立ち。
公爵夫人に相応しいドレス。
公爵夫人に相応しい微笑み。
その全部が、私の“中身”とずれている気がした。
「……もうすぐ、二十歳だ」
ぽつりと呟いた声が、部屋の天井に吸い込まれて消える。
誕生日が近いことを、私は誰にも言っていない。
言ったところで、どうせ――。
胸の奥が痛くなる前に、私は首を振った。
(期待しない)
期待した分だけ、苦しくなる。
私は小さく息を吐いて、机の上のカレンダーに視線を落とした。
赤い印が、ひとつだけ付けてある。
――明後日。
私の誕生日。
その文字を見つめていると、不意に、廊下の向こうから、足音が聞こえた。
誰かが立ち止まる気配。
扉の前。
――一瞬だけ。
そこに、誰かがいるような、気がした。
私は息を止めて、扉を見つめる。
けれど、ノックはない。
呼ぶ声もない。
足音は、静かに遠ざかっていった。
ただそれだけなのに、胸が、妙にざわめいた。
(……今の、誰?)
答えはない。
私はそっと指先を胸に当てた。
ここが、痛い。
痛いのに、まだ――どこかで期待してしまう自分がいる。
明後日が、いつもと同じ一日で終わりますように。
そんな願いを、私は初めて祈った。
――期待しないために。傷つかないために。
なのに。
カレンダーの赤い印が、やけに眩しく見えた。




