第4話 ママ(Stet)
台風一過の翌朝は、目が痛くなるほどの晴天だった。
暴力的な日差しが、散乱したガラス片を宝石のように輝かせている。
祖父は縁側で、その光の粒を穏やかな顔で眺めていた。
昨夜の激情は、嵐と共にどこかへ消え去っていた。
数日後、祖父は海の見える施設に入った。
私は一人、実家に残り、あの「青い海」の撤去作業をした。
ガムテープを剥がし、ビニールシートを丸める。
あれほど広大で、祖父を溺れさせていた深海は、四十五リットルのゴミ袋三つ分に収まってしまった。
ビニールがなくなると、そこには古びて変色した畳があるだけだった。
海は消え、ただの空っぽの部屋が残った。
だが、私の掌には、ガラスを握りしめた傷跡が、赤い線となって刻まれていた。
東京に戻った私は、いつものデスクに座っていた。
空調の効いたオフィスは、砂漠のように乾燥している。
ここには、潮の匂いも、血の生臭さも、湿った感情もない。あるのは、整然と並ぶパソコンと、インクの匂いだけだ。
私は再び赤ペンを握り、ゲラに向かった。
誤字を指摘し、事実関係を洗い出し、矛盾を正す。
私の仕事は以前と変わらず完璧だ。誰も喋らなくていい、音のない世界。
だが、新人の私小説の原稿をチェックしている時、ある一文で手が止まった。
『海が、寂しいと鳴いた』
校閲者としての回路が、反射的に反応する。
《不適切な擬人化。海は鳴かない。波の音、あるいは潮騒と書くべき》。
赤ペンが紙に触れようとした、その時だ。
掌に残る古傷が、チクリと痛んだ。
あの夜、祖父と一緒にガラスを握りしめた傷だ。脳裏に、あの青いビニールの海と、そこで汚物にまみれて泣いていた祖父の姿が蘇る。
――違う。
この著者は、波の音を聞いたのではない。海の「感情」を聞いたのだ。
かつての祖父が、ビニールの床に弟の面影を見ていたように。
それは事実ではないかもしれない。けれど、その人にとっての切実な真実だ。
私は赤ペンを置いた。
代わりに鉛筆を持ち、その一文の横に、小さくカタカナで二文字を書き込んだ。
ママ
それは「修正せず、原文のまま(イキ)で」という意味の指示だ。
私は、世界の間違い(エラー)を、訂正せずに許容した。
その瞬間、喉の奥に、あの「小石」を感じた。
三十二年間、私を苦しめてきた吃音の核。それは消えていなかった。相変わらずそこにあり、私の気道を塞ぎ、呼吸を阻害している。
けれど、私は唾と一緒に、その小石をゴクリと飲み込んだ。
喉が擦れて痛い。鉄の味がする。
この痛みこそが、私が私であることの感触だった。
ふと顔を上げ、窓の外を見た。
ビル群の無数の窓ガラスが、夕日を反射して茜色に燃えている。
その揺らめきは、あの夜の祖父の家の床のように、美しく、どこまでも広がる光の海に見えた。
私は、誰に言うともなく、唇を開いた。
喉が痙攣する。顔が引きつる。みっともない、壊れたレコードのような音が漏れる。
「あ……あ……」
意味のある言葉になど、ならなくていい。ただの音。ただのノイズ。
「あ、あ、あ……」
私は、私のバグを吐き出し続けた。
空気中に放たれたその音は、とてつもなく歪で、誤植だらけだった。
けれど、それは私の人生で一番、確かな響きを持っていた。
世界は相変わらず誤植だらけだ。
窓ガラスに映る私の口元が、わずかに緩んでいる。
赤ペンは、もういらない。
(了)




