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『誤植の海』—校閲者が挑む、修正不可能な夏—  作者: あとりえむ


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第3話 嵐と、赤いインク

深夜、世界が反転した。


台風の直撃で停電し、家の中は濃密な闇と轟音に包まれた。

雨戸が悲鳴を上げ、古い日本家屋全体が荒波に揉まれる小舟のように軋む。


「勇! 今ロープを投げるぞ!」


闇の中で祖父が叫び、懐中電灯の光束の中へ身を躍らせた。

強風で大きく波打つブルーシートのウネリへ、頭からダイブする。


「じ、じいちゃん!」


私が駆け寄ろうとした瞬間、縁側のガラス戸が派手な音を立てて砕け散った。

吹き込む雨。ヌルリと光る青いビニール。

祖父にとって、そこはもう完全に弟を奪ったあの日の「嵐の海」だった。


祖父は私の制止を振り切り、床に散乱した鋭利なガラス片を、宝物のように両手で掻き集め始めた。


「あった……これだ。これを持って帰れば、あいつは喜ぶんだ!」


止める間もなかった。

祖父が強く握りしめた拳の隙間から、ドロリとした液体が滴り落ちた。


青いビニールシートの上に、黒々とした鮮血が広がる。


その光景を見た瞬間、私の網膜に奇妙な図像が焼きついた。

青いゲラ(校正刷り)に落とされた、大量の赤いインク。


そうだ。私がいつも仕事で入れている「訂正」と同じ色だ。


この人は狂っているのではない。

命がけで、自分の人生の誤字を、血を流して修正しようとしているのだ。


それに引き換え、私はどうだ。

安全な場所で、言葉に詰まり、震えているだけではないか。


私は、祖父の手からガラスを奪い取るのをやめた。

代わりに、私もその場に膝をつき、落ちていたガラスの破片を、思い切り素手で握りしめた。


皮膚が裂ける感触。熱い痛み。


「……っ!」


声にならない悲鳴とともに、私の手からも血が流れ出し、祖父の血と混ざり合う。


「い、い……痛いか?」


私が絞り出すと、祖父は血まみれの手を見つめ、子供のように泣き出した。


「ああ、痛い。痛いよう」


言葉など要らなかった。

ただ、互いに流している血の赤さだけが、揺るぎない事実ファクトとしてそこにあった。


「ない……ない……」


祖父はまだ、血に濡れた床をまさぐっていた。


「あいつに渡す言葉がない」


私は、自分の血と、吹き込んだ雨水と、祖父の泥汚れが混ざり合った床に顔を近づけた。

そこに文字などない。あるのは混沌だけだ。


しかし、私は校閲者として絶対にやってはいけないことをした。

「ない文字」を読んだのだ。


「……あ、ある」


私は喉の小石を、鉄の味がする唾液と一緒に飲み込んだ。


「あるよ、じいちゃん」


私は何もない床の一点を指差した。


「こ、ここに……か、書いてある」


祖父が動きを止めた。

私は震える唇で、その「嘘」を読み上げる。

不思議と言葉は詰まらなかった。それは私の言葉ではなく、そこに書かれている(ことになっている)テキストだからだ。


「『ゆ、許す』って、書いてある。勇さんは、じいちゃんを許すって、ここに書いてあるよ」


それは根拠のない出任せであり、事実無根のフィクションだ。

しかし、どんな辞書の名文句よりも、この血と雨の混じった状況において、それは唯一、成立しうる「正解」だった。


祖父は、私の指差す空間を凝視した。

そして、震える手で、その何もない場所を愛おしそうに撫でた。


「……そうか」


祖父の体から力が抜けていく。


「あいつ、許してくれたか」


祖父が私にもたれかかってくる。私はその痩せた体を抱きしめた。

私のワイシャツに祖父の血がつき、祖父の甚平に私の血がつく。


私は泣いていた。祖父のためではない。

「正しさ」という呪縛から解放された自分が、あまりにも惨めで、そして幸福だったからだ。


私はどもったままでいい。間違ったままでいい。

この痛みがある限り、私は誰かと繋がることができる。


外の風の音が、少しずつ遠のいていくのがわかった。


(続く)

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