第2話 辞書にない湿度
私は立ち上がり、スーツの膝についた埃を払った。
感情的になってはいけない。
校閲者が感情で原稿を汚してはならないように、目の前にあるのは、難解だが必ず解法のあるパズルだ。
私は喉の小石を飲み込み、呼吸を整える。
鞄から仕事用の電子辞書を取り出し、無言のままビニールシートの上に膝をついた。
これが私の武器だ。これさえあれば、私はどもらない。
「わ、わ、わかった」
私は短い単語を選び、どうにか音にする。
「そ、その『言葉』とやらを……み、見つければ、いいんだろう?」
私の提案に、祖父は怯えた子供のような目で私を見た。
「……見つかるか? わしが何年も探して、どうしても見つからんのに」
私は頷き、電子辞書を掲げた。
「弟さんに詫び状を書きたいんだろう? どんな言葉が必要なんだ」
祖父は口をもごもごさせ、視線を彷徨わせた。
「謝りたいんだ。あの時、手を離してしまったことを。でも、『すまん』じゃ軽すぎる。もっとこう、重たいやつだ」
私は電子辞書のキーを叩いた。
カチカチという硬質な音が、青い部屋に響く。類語辞典を呼び出す。
「しゃ、謝罪……こ、後悔……反省」
画面に並ぶ候補を読み上げるたび、喉が詰まる。だが、活字は嘘をつかない。
「『ざ、懺悔』は? 罪を悔いて……こ、告白することだ」
祖父は首を激しく横に振った。
「違う。そんなカチカチした石みたいな言葉じゃ、勇は受け取ってくれん。あいつはもっと柔らかいのが好きだった」
ならば、『痛恨』か、『哀悼』か。
私が提示するたび、祖父の苛立ちは増していく。
「死んどらん! あいつはまだ、そこで溺れとるんだ!」
会話が噛み合わないのではない。文法そのものが違うのだ。
私は『悔悟』『自責』『万死』と、次々に検索結果を突きつける。
正解を出せば、この場を支配できる。私の喉を締め付けるこの混沌とした空気を、論理で浄化できるはずだ。
だが祖父は、「違う、違う」と繰り返すばかりだった。
「もっと、喉の奥が焼けるような、塩辛い言葉だ。口に出すとヒリヒリするようなやつだ」
私は辞書を閉じた。
パタン、とプラスチックの乾いた音が、やけに虚しく響く。
「じいちゃん」
私は強引に息を吸い、論理という名の杭を打ち込む。
「こ、言葉は……しょっぱくないし、や、焼けもしない。じいちゃんが探しているのは……こ、言葉じゃない。ただの、き、気分だ」
祖父は黙り込み、また手元の『言海』の残骸をいじり始めた。
その姿が、私の「正しさ」への執着をさらに煽った。
この非論理的な状況を、今すぐエンドマークで終わらせたい。
焦りが、最も言ってはいけない「正論」を押し出す。
「そ、そもそも……弟さんは六十年前に死んだんだ! て、手紙なんて書いたって届かない! 言葉を見つけても……い、い、意味がないんだよ!」
言い切った瞬間、肺の空気が尽きた。
私はゼーゼーと肩で息をした。激昂するか、殴りかかってくるか。
身構えた私の前で、しかし祖父は、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
額をビニールシートに擦り付け、獣のような低い声で唸る。
「……届かんからこそ、だ」
祖父の声が震えていた。
「届かんからこそ、正しい言葉じゃなきゃいかんのだ……。間違ったままじゃ、あいつは永遠に冷たいままだ」
不意に、祖父の股間あたりから、じわりと濃い色が広がった。
失禁だった。
温かい液体が、青いビニールシートの上をゆっくりと浸食していく。
祖父は恥じる様子もなく、ただ床に顔を押し付けて嗚咽していた。
私は息を呑んだ。
その水たまりは、私が提示したどんな活字よりも、私が必死に紡いだどの言葉よりも、圧倒的に雄弁で、生々しい質量を持っていた。
祖父の涙と、排泄物。
その汚くて温かい液体こそが、祖父にとってのリアルな海だった。
それに引き換え、私の持つ辞書の言葉は、なんて清潔で、乾燥していて、空虚なのか。
私は自分の喉元を押さえた。言葉が出ないのではない。言うべき言葉を、私は持っていないのだ。
私が立ち尽くしていると、家の外で重低音が鳴り始めた。
風だ。
気圧が急激に下がり、家全体がきしむ。
祖父が濡れた顔を上げ、天井を見上げた。その目には、もはや理性のかけらも残っていなかった。
「来る……時化が来る」
祖父は恐怖と、どこか恍惚とした表情で呟いた。
「海が荒れれば、底から『あれ』が浮き上がってくるかもしれん」
私の論理ではもう、この物語の暴走は止められない。
私は、自分が安全な陸地から、危険な海へと引きずり込まれているのを感じた。
(続く)




