表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『誤植の海』—校閲者が挑む、修正不可能な夏—  作者: あとりえむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/4

第2話 辞書にない湿度

私は立ち上がり、スーツの膝についた埃を払った。

感情的になってはいけない。

校閲者が感情で原稿を汚してはならないように、目の前にあるのは、難解だが必ず解法のあるパズルだ。


私は喉の小石を飲み込み、呼吸を整える。

鞄から仕事用の電子辞書を取り出し、無言のままビニールシートの上に膝をついた。


これが私の武器だ。これさえあれば、私はどもらない。


「わ、わ、わかった」


私は短い単語を選び、どうにか音にする。


「そ、その『言葉』とやらを……み、見つければ、いいんだろう?」


私の提案に、祖父は怯えた子供のような目で私を見た。


「……見つかるか? わしが何年も探して、どうしても見つからんのに」


私は頷き、電子辞書を掲げた。


「弟さんに詫び状を書きたいんだろう? どんな言葉が必要なんだ」


祖父は口をもごもごさせ、視線を彷徨わせた。


「謝りたいんだ。あの時、手を離してしまったことを。でも、『すまん』じゃ軽すぎる。もっとこう、重たいやつだ」


私は電子辞書のキーを叩いた。

カチカチという硬質な音が、青い部屋に響く。類語辞典を呼び出す。


「しゃ、謝罪……こ、後悔……反省」


画面に並ぶ候補を読み上げるたび、喉が詰まる。だが、活字は嘘をつかない。


「『ざ、懺悔』は? 罪を悔いて……こ、告白することだ」


祖父は首を激しく横に振った。


「違う。そんなカチカチした石みたいな言葉じゃ、勇は受け取ってくれん。あいつはもっと柔らかいのが好きだった」


ならば、『痛恨』か、『哀悼』か。

私が提示するたび、祖父の苛立ちは増していく。


「死んどらん! あいつはまだ、そこで溺れとるんだ!」


会話が噛み合わないのではない。文法そのものが違うのだ。

私は『悔悟』『自責』『万死』と、次々に検索結果を突きつける。


正解を出せば、この場を支配できる。私の喉を締め付けるこの混沌とした空気を、論理で浄化できるはずだ。

だが祖父は、「違う、違う」と繰り返すばかりだった。


「もっと、喉の奥が焼けるような、塩辛い言葉だ。口に出すとヒリヒリするようなやつだ」


私は辞書を閉じた。

パタン、とプラスチックの乾いた音が、やけに虚しく響く。


「じいちゃん」


私は強引に息を吸い、論理という名の杭を打ち込む。


「こ、言葉は……しょっぱくないし、や、焼けもしない。じいちゃんが探しているのは……こ、言葉じゃない。ただの、き、気分だ」


祖父は黙り込み、また手元の『言海』の残骸をいじり始めた。

その姿が、私の「正しさ」への執着をさらに煽った。


この非論理的な状況を、今すぐエンドマークで終わらせたい。

焦りが、最も言ってはいけない「正論」を押し出す。


「そ、そもそも……弟さんは六十年前に死んだんだ! て、手紙なんて書いたって届かない! 言葉を見つけても……い、い、意味がないんだよ!」


言い切った瞬間、肺の空気が尽きた。

私はゼーゼーと肩で息をした。激昂するか、殴りかかってくるか。


身構えた私の前で、しかし祖父は、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。

額をビニールシートに擦り付け、獣のような低い声で唸る。


「……届かんからこそ、だ」


祖父の声が震えていた。


「届かんからこそ、正しい言葉じゃなきゃいかんのだ……。間違ったままじゃ、あいつは永遠に冷たいままだ」


不意に、祖父の股間あたりから、じわりと濃い色が広がった。


失禁だった。


温かい液体が、青いビニールシートの上をゆっくりと浸食していく。

祖父は恥じる様子もなく、ただ床に顔を押し付けて嗚咽していた。


私は息を呑んだ。

その水たまりは、私が提示したどんな活字よりも、私が必死に紡いだどの言葉よりも、圧倒的に雄弁で、生々しい質量を持っていた。


祖父の涙と、排泄物。

その汚くて温かい液体こそが、祖父にとってのリアルな海だった。


それに引き換え、私の持つ辞書の言葉は、なんて清潔で、乾燥していて、空虚なのか。

私は自分の喉元を押さえた。言葉が出ないのではない。言うべき言葉を、私は持っていないのだ。


私が立ち尽くしていると、家の外で重低音が鳴り始めた。

風だ。

気圧が急激に下がり、家全体がきしむ。


祖父が濡れた顔を上げ、天井を見上げた。その目には、もはや理性のかけらも残っていなかった。


「来る……時化が来る」


祖父は恐怖と、どこか恍惚とした表情で呟いた。


「海が荒れれば、底から『あれ』が浮き上がってくるかもしれん」


私の論理ではもう、この物語の暴走は止められない。

私は、自分が安全な陸地から、危険な海へと引きずり込まれているのを感じた。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ