表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『誤植の海』—校閲者が挑む、修正不可能な夏—  作者: あとりえむ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/4

第1話 赤字の入れられない部屋

世界は、校正されるのを待っている書き損じの原稿にすぎない。

そう信じ込まなければ、私はこの呼吸ひとつ、まともに吸うことができなかった。


帰省する新幹線の車内で、私は喉の奥に詰まった「小石」を意識していた。

三十二年、私の気道を塞ぎ続ける目に見えない小石だ。


隣席のビジネスマンが携帯電話で「ええ、すぐに修正します」と流暢に話している。

私には一生かかっても到達できない、淀みのない発話のリズム。

私は、自分の太ももを爪で強く食い込ませた。


私には吃音がある。


「あ、あ、ありがとうございました」


コンビニで礼を言うだけで呼吸は止まり、顔は引きつり、店員に怪訝な目を向けられる。

口から出る言葉はいつだって誤植だらけだ。一度空気中に放たれた音は、訂正することも消しゴムで消すこともできない。


その恥辱と無力感から逃れるように、私は喋らなくていい、完璧な「正解」だけが存在する場所へ逃げ込んだ。

東京の出版社、校閲部。

そこでは時間は止まり、誤字は赤ペン一本で殺せる。

私が唯一、神になれる場所。そこだけが私の呼吸できる肺だった。


ふと、前の座席の広告が目に入る。

『劇的! 若返りへの挑戦』


そのコピーのフォントサイズと、隣の修飾語とのバランスが数ミリ崩れている。

背筋が凍る。直したい。今すぐ赤ペンで、そのズレを正したい。


それは職業病などという生易しいものではない。世界の「ズレ」を放置すれば、そこから私の喉の小石のように混沌としたノイズが溢れ出し、私を殺しに来る気がするからだ。

私は「正しさ」という鎧を着ていないと、一秒たりとも生きていられない。


父からの電話は、そんな私の鎧の隙間を狙い澄ましたかのように鳴った。


「じいさんが、家を『海』にしてしまった」


意味が通らない。文脈が破綻している。

問い返そうとしたが、喉の小石が邪魔をする。


「い、い、意味が、わ、わから……」


言葉は形にならず、ただの空気の破裂音として消えた。

苛立ちと自己嫌悪。

私はその「エラー」を――吃音も、祖父の奇行も――修正するために、休暇届を出し、海沿いの寂れた実家へと向かったのだ。


玄関の引き戸を開けた瞬間、私を襲ったのは腐敗臭ではなかった。

圧倒的な、暴力的なまでの「青」だった。


「……なんだ、これは」


靴を脱ぐのも忘れ、私は立ち尽くした。


廊下から居間、その奥の仏間に至るまで、安っぽいブルーシートが隙間なく敷き詰められている。

継ぎ目はガムテープで幾重にも目張りされ、床板の木目は完全に消失していた。箪笥やちゃぶ台といった家具はすべて壁際に積み上げられている。まるで高潮を避けるかのように。


家全体が巨大な水槽、あるいは水没した遺跡と化していた。

窓から差し込む陽光がビニールに反射し、天井に波のような光の紋様を描いている。

その光景は、狂気であると同時に、私の美意識を逆撫でするような、奇妙で凄惨な美しさを放っていた。


その青いビニールの海原の中心に、祖父はいた。


八十五歳になる元漁師の背中は、記憶の中よりも二回りほど小さくなっている。彼は正座をし、手元にある分厚い書物を一枚ずつ破り取っては、クシャクシャに丸め、周囲に放り投げていた。


その装丁には見覚えがあった。『言海』だ。

明治期に編纂された、日本初の近代的国語辞書。


かつて祖父は「海を知るには、まず言葉の海を知らねばならん」と言って、その古びた辞書を御守りのように大切にしていた。

今、文字通りの「言葉の海」が、祖父の手によって引き裂かれ、物理的な海へと還元されていく。黄ばんだページが舞う様は、時化た海に浮かぶ、汚れた波の花そのものだった。


私は土足のまま「海」に踏み入った。

ビニールがガサガサと安っぽい音を立てる。


喉の奥が引きつる。喋ろうとするが、言葉が出ない。だから私は行動で示すしかなかった。無言のまま、乱暴に祖父の手から『言海』を奪い取ろうとする。


「あ、あ、危ないから、や、やめ……!」


私の口から漏れたのは、情けないほど途切れ途切れの音だった。

その瞬間、祖父は老人のものとは思えない瞬発力で私を突き飛ばした。


「触るな!」


私のどもった言葉など、波音にかき消される泡沫に過ぎなかった。

私はバランスを崩し、青いビニールの上に無様に尻餅をついた。


祖父は私を睨みつけていなかった。私の背後、何もない空間を凝視し、恐怖に顔を歪めていた。


「お前には見えんのか! あいつが、勇がそこで溺れているのが!」


祖父の指差す先には、ただ青いビニールがのっぺりと広がっているだけだ。

弟の勇。私が生まれる六十年前に死んだという、祖父の弟。


私は冷たいビニールの感触を尻に感じながら、呆然と理解した。

この家は今、修正不可能なバグで満たされている。そしてここには、私の武器である「赤ペン」は通用しない。


私は、自分の喉元を強く握りしめた。


(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ