靴紐
「あんた、靴紐解けてる」
母親に言われて初めて足元を見る。
目の先には言われた通り、左右に弾ける靴紐があった。
駅の通路の真ん中だったが、特に何も考えずその場にしゃがみ込んで、ものの数秒で、結ぶ。
中学生になるまで靴紐なんか結べなかったのに、今じゃ手慣れたものだ。
足の締まりを感じつつ、僕は再び歩き出そうと立ち上がった。
すると、少し前方に母親が歩いていた。
僕の結ぶ作業を待つことなく、数十メートル先を進んでいた。
その姿は、周りに人がいないせいでより残酷に映る。
母親が待ってくれなかったことに若干の苛立ちを感じつつ、僕は追いつこうと足を踏み出そうとした。
が、地面を踏み外したかのように、スピードが出なかった。
これには、脳も景色の映像を眺める事しか出来なかった。
早く行かなければ、母親と同じ電車に乗れなくなってしまう。
そうすると、無駄な連絡を交わしたり、叱られてしまう。
頭ではわかっていたけれど、強張る筋肉によるぎこちない抵抗がかかっている。
まだ準備ができていないかのような、鈍さが。
結局僕は母親にノロノロと追いついた。
そして、またゆったりとしたテンポの足取りに戻った。
すると追いついたことに気がついて、母親がため息を吐くかのように口を開く。
「靴紐解けてたの気づかなかったの?」
僕は、伝わりやすいように頷く。
…いや、正直にいうと、気がついていた。
ひもが遠心力で振り回されて、駅のコンクリートと音を鳴らしていたから。
けれど、僕は結ぶ気にはなれなかった。
「危ないんだから、すぐ結びなさい」
ちょっとだけ強い言葉をかけられた気がした。
でも僕は反省することなく、その言葉を飲み込んで腹の奥へ沈めた。
そうしてホームで電車を待っていると、人がわんさかいる特急列車が来た。
目的の駅にも着くのでその列車に乗ったが、勿論座ることはできず、吊り革に捕まって揺られながらただ到着を待っていた。
何かをしたり考えたりする時間じゃなしと、辺りを適当にキョロキョロする。
…すると、靴紐が再び解けていることを発見してしまった。
おかしい。
先程結んだ地点から、そう歩いていないのに。
結びが甘かったのだろうか。
結んでしまおうと思ったが、揺れる車内でわざわざしゃがみ込むのは、少し気が引ける。
対して危険でもないのに結ばされる僕の指の気にもなって欲しい。
それに雑に結んでしまうかも……しれないし。
そう思って再び俯くと、靴紐はまるで結ばせる気がないように散らかっていて、むしろ僕を転ばせようと挑発しているみたいだった。
けれど、僕を嫌うその気持ちも、わかるような気がした。
僕は靴紐を隠すように、足を母親の向かいへズラす。
気づかれたか確認しようとした、その視線が母親とぶつかった。
思わず焦る、手汗で手すりから振り落とされそうになる、車内の空気で鼻が曲がる。
「ねえ、明日の外食楽しみだね」
当たり障りがなさすぎて、僕の言葉は全てを貫通して空気に飽和した。
母親は霧散した僕の言葉を受け取れず、しばらく電車の走行音しか聞こえなかった。




