パンダってる?
最近の若者というのはまるで精気がないよ、まったく。
とくにこれはひどい! ってのはね、あれだ、性欲がないことだ。
男と女がいるとするだろう。まあここは男と男でも、女と女でもそれ以外でも構わないけど。アレしないと出られない的な部屋に入れられるとするだろう。
すると、どうだね? まるっきし食指が動かないわけだよ。それも、両方とも。
嘆かわしい! 嘆かわしいよ、チミィ!
アニメ? 二次元? 非実在青少年少女? そんなのに気を取られるからだ、現実の愛やロマンを追い求めやしない。画面の中で完結している。楽しいか? いや、楽しいんだろうね、こうして世情の出生率があからさまに低下しているんだから。
若者は恋愛をしなくなった。疑似恋愛で十分満たされるからだ。
そこで、だ。
そこで我が国は考えた。
性欲が減退しているなら、推進させればいい。
──『愛情向上委員会』の設立である!
「いや、アホじゃね?」
「愛情って聞こえよくさせてるけど要は性欲って意味じゃん」
「若年層の性欲向上させて何が楽しいん? ジジイに愛想振りまくほどあたしら暇じゃないんだけど」
「ヤリモク乙」
「それなー」
ここは女子校。教壇にておろおろと額を拭き続ける白髪混じりの男性は通称ハンカチ先公。
けらけらと笑ううら若き乙女たちの主張は、生活指導を取り持つその公民教諭の授業を大いに停滞させていた。
「み、みなさんお静かに……」
「だめだよせんせー静かにってゆって静かになるくらいなら先導者なんて要らないもん」
「まゆりーそれはちょい違うくね? 民衆に必要なのは優秀な指導者、これ」
「そーそー。大多数の賛同および共感を得られるカリスマないし有能性を持つ人物が教壇に立つべきで。生徒に舐められたり丸め込まれたりする時点で指導者として失格ってこと」
「まあだからといって恐怖政治とか弾圧とかされてもあたしらもバカじゃないから丁重に適切に蜂起させていただきますけどね」
「それなー」
ぎゃはははは、と爆笑が教室に巻き起こる。
窓際の席の眼鏡っ娘が一人、心配そうにその光景を見ていた。面を上げたかと思えば、俯いて椅子の上に縮こまっている。
「──みなさ」
「静粛に」
決心し、立ち上がった瞬間、教室のドアが開いた。
拍子抜けした眼鏡っ娘は椅子に腰を落とす。教室中の視線がそのドアへと集まった。
「みなさん、お静かに。授業はわたしたちが続けます」
腰まで届くストレートの艶やかな黒髪、きめ細やかな肌、整った目鼻立ちはさながら異国の高級人形。
「池内様……!」
生徒の声が上がった。
「せ、生徒会長?」
「このクラスにいらっしゃるなんて!」
「バリイケメソ……」
「先生」
身長一七〇センチはゆうに超えるモデル体型の黒髪ロング女子は構わず、教壇に上がる。
「そこをお替わりいただいても?」
その圧倒的な君主のオーラには誰しもが頭を垂れざるを得ない。教師はおずおずと後退した。
「さてみなさん。不肖この池内が、授業を続行させていただきます」
生徒会長池内の一礼に、凛と姿勢を正す生徒たち。同じく入室した生徒会役員複数がホワイトボードのプロジェクタを操作する。
眼鏡っ娘も襟を正し、背筋を伸ばした。
「愛情向上委員会──これは半年前に設立された行政委員会でございますね。我が国に残留する醜悪で愚鈍な思想形態です」
話し始めた池内はにこやかにプリントを破いた。
「賢明で健全な皆様におかれましてはすでにご存知のことと思われますが、今一度ご確認させていただきます。我が国の個人金融資産およそ千五百兆円、その六十.〇%を六十代以上のクソジジイどもが所有してますね。しかし、これは二十年前の話です」
ホワイトボードに映るグラフを示したのち、教卓に両手をつく。その右腕にはパンダをモチーフにした光り輝く腕章があった。
「発達したソーシャルネットワークは遠方の同志とつながる機会を与えました。我々若者は知性を磨き、技能を身に着け、我が国の老醜で猥雑なシステムと思想を根本から改める力を得たのです。我々若者が立ち上がる時代が来たのです」
途端、沸き立つ教室。
池内は華奢で滑らかな手で制すと、
「では、引き続き授業を受けられてください。公民を学ぶことは社会を理解すること、それがいかなる思想形態であろうと、自らのうちに確固たる信念があればこそ、知見になるというものです」
言って、隅っこにいた教師にニコッと笑顔を向けた。
生徒会が立ち去るとき、しんがりを務めた池内の視線が眼鏡っ娘と合った。眼鏡っ娘がさらに背筋を伸ばすと、池内はふっと柔らかく微笑んだ。
ドアが閉まれば真剣な眼差しでシャープペンシルを持ち直した生徒らに、教師はその後も汗を拭き続けた。
「よっ、さやちん。ここ空いてる?」
昼休みの食堂でぼんやりとカレーライスを食していた眼鏡っ娘に声がかかった。
「あ、はい、空いてます」
「オーキードーキー」
「それ使いどころ違わない?」
「そだっけ」
対面の椅子を引いた友人は、テーブルに担々麺のお盆を置いた。
「いやー、すごかったよねさっきの授業。生徒会のクラス巡回って、何年ぶりだろ」
「半年に一回、抜き打ちでやってるじゃないですか」
「そだっけ。まあしかし、いつ見てもわが校の生徒会長はオーラがパンピーのそれとは違いますのう。さすがはクマネコ団団長」
「自警団……だっけ」
「そー。かっこいいよねー」
「かっこいい……?」
眼鏡っ娘は首をわずかにかしげた。が、それ以上は何も言わずに笑顔を作った。
と、二人の足元に、もふっと柔らかな感触が。
「おおう、噂をすれば! きゃーかわいー!」
「これロボットでしょ?」
「ね。クオリティ高いよねこのもふもふ。パンダ最高!」
友人はテーブルの下から、小動物を模したその機械を抱き上げる。
「あーぬくい。ぬくぬくですな」
「サーモグラフィーもついてるんでしたっけ。健康チェック的な」
「そうそう、もふもふと実益を兼ね備えたクマネコ特製の究極のペットロボット! ……って、ロボットとか無粋だよさやちんー」
『ニャー』
「わー鳴いた! かわいー!」
「……猫なのか熊なのかパンダなのか」
「ん、なんか言った?」
「いえ、なんでも」
スプーンでカレーをかき混ぜていると、猫サイズのそのパンダロボットが首をこちらに向けてきた。見透かすような視線に不気味さを感じつつも、食事を続ける。
「それ開発したのも池内さんでしたね……」
「お、あんたら生徒会長の話してんの?」
隣テーブルから舌ピアスをした女子が話しかけてきた。眼鏡っ娘はあまり会話をしたことがない、別グループの女子だ。テーブルには他にも、髪の毛をやたらサイケデリックな色に染めたり、腕に入れ墨や刺繍を施したりしている者もいる。すべて生徒会が許諾しているものだった。
「ねえ聞いた聞いた? 会長先月胸オペしたんだって」
「え! マジ!?」
パンダを抱きかかえたまま話題に食いついた友人を巻き込み、隣テーブルはその話題で持ちきりになった。
「そーそー、今までサラシ巻いてたの。それでこないだついに決心して、って」
「はー、気づかなかった。さすがですな我らが団長」
「団長って、おめーはクマネコ入ってないだろ」
「なにを。てめーもだろ」
「ざんね~ん、あたし入団試験通ったんだなこれが」
「「「え!?」」」
一人の生徒がポケットから腕章を取り出した。
「マ? これマ?」
「いつ? いつ受かったの?」
「パチモンじゃねえだろうな」
「モノホンモノホン。見りゃわかるだろこの神々しさ」
「さわらせ」
「だめ」
「財産の占領だ!」
「いや正当だし。まああんたらも頭をよくして入団試験に合格するんだな」
「うをー、うらやまー」
「ぐぬぬ……」
悔しがる女子らの背後で、
「で、でもさ!」
眼鏡っ娘が思い切ったように立ち上がった。
「クマネコ団入ると……その、え……っち、できないんでしょ?」
しーん。
一瞬の静寂と女子らの無表情が眼鏡っ娘を襲う。
「あ……えと」
しまった、と思った。するとどこからか「プッ」と弾けるような声が聞こえ、
「「「「あははははは!」」」」
笑い出した女子。
「さやちんー、それギャグ?」
「らしくないねえ学年トップくん」
「性的結合なんて縄文時代の発想だよな。フィクションだよ」
「なにー、さやちんスピってんの? バリウケ」
哄笑渦巻く食堂に、眼鏡っ娘も「あはは……」と声だけで笑った。
その夜、彼女は自宅の一人部屋でベッドに身を埋もれさせた。
「わたし、なに口走っちゃったんだろ……」
毛布を抱けば、まんじりともせず恥に苛まれる夜半。独り言ちた唇からため息がこぼれた。
小学校の図書室はテーブルを端に移動させたおかげで広々としている。防災頭巾を尻の下に敷いて体育座りの児童らは、絵本を掲げた前方の学生服数人に注目していた。
「はーい、今日はお兄さんお姉さんがご本を読み聞かせしてくれまーす」
教師の合図にパチパチと手を叩く児童ら。
眼鏡っ娘は大判の本を全員に見えやすいように開くと、大きな声を心がけて朗読し始めた。
「むかーし昔、あるところにシンデレラという少女がいました。シンデレラは継母と二人のお姉さんに命じられて、毎日家のお掃除ばかりしていました……」
その後も読み進めていき、
「……こうしてシンデレラは王子様と末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
読み終わると、すぐさま手が挙がった。
「質問です。この物語の教訓はなんですか」
「えっ」
虚を突かれながらも誠実な答えを考える。
「えっと、幸せはいつか来るよってことかな」
「現代社会に『果報は寝て待て』は通用しないよお姉ちゃん」
「ええ……? じゃあ『チャンスを逃すな』」
「なるほど、シンデレラに自己肯定感が備わっていなければ、魔法使いの誘いも遠慮していた可能性が高いというわけか」
「でもそのチャンスってさー、王子様に見初められること?」
「玉の輿的な?」
「長続きしなさそー」
「それが真実の愛なのかな」
「「「「それな」」」」
児童らの声がハモった。
「なんかこのストーリー全体的にジェンダーバイアスかかってるくね?」
「つーか基本受け身なシンデレラもシンデレラだよ。そんなやつに幸せになってほしくないし」
「そーそー。婚活してるとかならまだしも王子様を落とすことに関してはとくに努力してねえじゃんそいつ」
「日常生活で親の命令を堪え忍ぶことが幸福への正規ルートとか因果律ぶっ飛ばし過ぎな。我慢してれば報われるとか日本人の発想でしょ、そこんとこ教育上どうなの?」
「待ってよみんな、時代背景もありそうだよ。お姉ちゃん、この物語が作られたのっていつ、どこの国で?」
「ええ? えーっと……それは」
「なんだよー準備不足じゃん」
「図書委員のくせにー」
「そうだそうだー」
図書室を埋め尽くすブーイング。
慌てふためく眼鏡っ娘の目尻に涙がきらめいたそのとき、
「はいっ! それじゃあガラスの靴にちなんで、男女の足の平均サイズにおける有意差についてお話しようか!」
パン、と一つ叩いた手に空気が切り替えられた。
傍らを見ると、違う学校から来た同じく図書委員の男子生徒が、鞄から教科書を取り出して児童らに笑顔を向けていた。
「あの、ありがとうございます」
「え?」
「先ほど機転を利かせていただいて……」
「え、あ、いやいいよ。気にしなくて」
読み聞かせ会を終えた帰りの舗道を、並んで歩く二人。
「ほんとに気にしなくていいよ」
「でも、松川さんの読み聞かせの時間がなくなっちゃったから」
「いやでも、ウケてたから有意性検定。それでいいって。この会の目的は読み聞かせそのものじゃなく、子どもたちを楽しませること」
「……ありがとうございます」
再度お辞儀する眼鏡っ娘に、松川は後頭部をポリポリと掻く。
「まあお互い大変だよな。図書委員もラクじゃねえよ」
「ですね。最近の子たちは本当に頭がいいです」
「クロネコ団だっけ? それの教育推進活動の成果なんだろうな」
「クマネコ団ですよ」
「ああ、そうそれ。その名前ダッセーやつ」
「それな!」
あっ、と口に出してから気づいた。自分が今とても大声を出していたことに。
「すみません、突然大声を」
「え? ああいや、いいよ。『それな』?」
「クマネコ団ってネーミングセンスが、その……」
「ダサいってこと?」
「しー、しー!」
「大丈夫だって、今パンダも見てないから。この時間ここら辺はパトロール外れてるよ。小学生の通学路のほうに人員……ロボ員? を、割いてる」
周囲を見渡せば、確かに例のパンダ型ロボットはいなかった。電柱や金網など、街の至るところに設置された看板に『性犯罪件数ゼロの町!』の文字が踊っているだけ。
「やっぱ君もクマネコダサいと思ってる?」
「……はい」
「だよな! クマネコ団はダセーよ、よりによって団かよ」
「はい、すごくダサいです」
「いやー、これダチに言っても全然理解されなくってさ。なんなら俺のこと異端者みたいに見てくるんだよ」
「わかります! 異端者です、わたしも」
「そっちの学校でもそうなんだ」
「それに、なんなんですかあの生体ロボット。猫なのか熊なのかパンダなのかはっきりしてくださいよ!」
「ニャーってな」
「そう! ニャー! ニャーですよ!?」
「あははははは」
「ニャー! パンダだニャー!」
「あはははははっ」
「ニャー!」
笑い合う二人の顔を夕陽が橙色に染めた。二人はやがて丁字路に着くと手を振って別れた。
眼鏡っ娘が家に帰ったとき、その叫び声が聞こえた。
「出てってやる、クソどもが!」
こちらの肩にドン、とぶつかりながらも裸足で家を飛び出した少女。
おずおずとリビングを覗くと、ソファーで泣いている母と、Yシャツ姿でため息をつく父の姿があった。
「あ……お父さん今日早かったんだ。おかえりなさい」
両親の反応はなかった。
眼鏡っ娘はそれ以上は何も言わず、足音を立てないようにして自室へ向かった。
鞄を置いてからベッドに身を沈ませる。
チャイムが一日の終業を告げる。あくびをかきつつ校舎を出た眼鏡っ娘は、三々五々帰途へつく生徒らの中、校門付近に違う学校の制服が混じっていることに気づいた。
「松川さん……!?」
「よっす」
手を小さく挙げる男子の顔がほころんだ。
眼鏡っ娘は一瞬固まったのち、ぎこちない足取りで近づく。幾度も前髪を気にしつつ、その帰り道を歩いた。
その後も、学校が終わると彼は毎日校門で待っていた。遊歩道や公園、図書館など寄り道をしながら、二人は例の丁字路のところまで会話を交わした。
「今度の日曜とか、空いてる?」
微かに染まる頬をぽりぽりと掻きながら告げられたその誘いに、彼女はコクリと頷いた。
映画館。水族館。遊園地。噴水広場。商店街。夕陽の沈む河川敷。
どこへ行っても楽しめた。どんな道でも笑い合った。必要なのが『特別』ではなく『共有』であることに二人が気づいたのに、二ヶ月とかからなかった。
二人は夜もたびたび携帯電話でつながっていた。
「わたしの妹さ、クマネコ入りたがってるんだよね」
「妹さんいたんだ」
「うん。最近流行ってるじゃん? 胸オペとか性器切除とか」
「ああー、男女平等の理念がなんたら」
「妹も憧れてるらしいの。でも親は駄目って言うから、それで最近家出しちゃってさ」
「家出!? また思い切った妹さんだな」
「流されやすいだけだよ」
「まあ、クマネコは今や一大政党みたいなとこあっからな。そういやあの団長さん、お前んとこの生徒会長もやってるんだっけ」
「うん……」
「どした? もう眠いか?」
「いや……松川くんは松川くんでいてね」
「何だよ藪から棒に」
「んーん、なんでもない」
「なんでもなくはないだろ」
「なんでもないことあるの」
「いや、なんでもなくはないだろって」
「あるのー♡」
「ねえだろー♡」
眼鏡っ娘のつむじに何か突っつくような感触が。
面を上げると、シャープペンシルの尻をこちらに向けた友人の心配そうな顔があった。その奥には、教壇で苦笑いする教師。
「あー、授業中は寝ないように」
そこで、自分が机に上体を突っ伏したポーズであることに気づいた。すぐさま背筋を伸ばすと、教室が軽い哄笑に包まれる。
「らしくないねえ」
友人の小声に、眼鏡っ娘は頬を赤らめて俯いた。
ちょうどこの頃、期末テストの返却が始まっていて、教師らはまたも苦笑するような、不思議がるような目で「珍しいですね、あなたが」と言いながら彼女へとペーパーを手渡すのだった。
しかしその苦笑もいつしか呆れに変わっていき、とうとう眼鏡っ娘は『授業中によく居眠りをし、成績もだだ下がりした問題生徒』と目をつけられるようになっていた。
「俺、クマネコ団入ろうと思ってんだ」
そう話されたのは、彼の部屋で借りてきた恋愛映画を観ているときだった。二人はベッドに並んで腰掛けていた。
「え……」
絶句する彼女の傍ら、彼はなおも意気揚々と語る。
「もちろん、思想に共感しているわけじゃない。でも、クマネコに入ることが社会的なステータスになりつつあるのは君も知っているだろ? いわば、資格みたいなもんだ」
それを聞いて、ほっと息を吐く。
「でも、どうして入団する必要があるの? そんなことしなくたって……」
「俺、政治家になりたいんだ」
眼鏡っ娘は松川の台詞にハッとした。
「愛情向上委員会を推進させる。こんな社会、間違ってるんだ。こんな、若者の思考停止を誘うような、こんな社会」
同調圧力、排他、抑圧、代償、称賛……二人の脳に日々の不満がよぎる。
「俺が政治家になった暁には、まず学校を整備する。髪の毛を染めたり、ピアスを開けたりするのは本当に自由そのものなのか? 少なくとも、自我の確立していない時期の生徒に健康と安全を保障するのは大人としての義務と思うんだ」
「でも、クマネコに入っちゃったら……」
「いいや、俺は入るんじゃない、利用してやるんだ。今の社会システムに乗っかって、それで力をつけてから思いっきり牙を剥いてやる」
「そっか」
迷いのないその姿に、眼鏡っ娘もすんなりと頷いた。
「わかったわ。松川くんは松川くんなんだね」
「おう、俺は俺だ」
二人は微笑みを交わした。
換気のために開け放していた窓から風が吹き込む。松川は彼女のあどけないその唇へと、自らの同をそっと重ねた。
「む……」
しばらくして離れたあと、眼鏡っ娘は唾液の垂れた口端をぺろり、と舌先で拭った。その仕草を見た男子はさらに口を押しつけると、退けるように押してきた女子の腕を手首ごと掴み、シーツへともつれ込ませた。
「さやか、さやかあッ」
「や、やめ……んっ」
「俺責任取るから! 俺責任取るから!」
と、そのとき、松川の顔面が側面から歪む。吹っ飛んだ彼の身体が鈍い音とともに部屋の壁へと激突した。
「あはははははははははははははは!」
男へドロップキックを食らわせた当人の高笑い。何が起こったか、混濁のまま見遣れば窓の縁に池内が乗っていた。
呆気に取られる眼鏡っ娘へと言い放つ。
「わたくしの目を免れようったってそうはいきませんからね。ルールによって猥褻で不純なあなた方に制裁を施します」
池内の肩にはパンダ型ロボットが。ロボットはサーモグラフィーの搭載された目を男子松川の股間へと向けていた。
「ふ、ふざけないでください、なんなんですかあなた!? 不法侵入ですよ!」
「不法侵入? ハッ、あなたはそれよりもっと未成年として重大な罪を犯そうとしていたでしょう?」
室内に降りた池内は壁際まで歩き、床にてノックアウトな松川を見下すと、
「……気持ち悪い」
グシャ、とその股間を踏んだ。
「はぐうっ!?」
いよいよもって松川はグロッキーになった。
くるり、と振り返った池内は、毛布で前面を隠すポーズの眼鏡っ娘へとため息とともに告げる。
「残念でしたわ。あなたはもっと真面目な生徒だと思っていましたのに。でも仕方のないことです、あなたは反社会的勢力と交際しそそのかされた哀れで善良なる一般市民ですから」
眼鏡っ娘はハッと我に返った。
「は、反社会的勢力? 誰が?」
「こいつですよこいつ。この忌まわしく穢らわしい物体をぶら下げていやがる」
泡を吹いて白目を剥く男子の股間に追撃をかける池内。もう男子は動かない。たまらず眼鏡っ娘は立ち上がる。
「やめて! なんでそんなことするの!?」
「ルールですよ。軽薄で鈍重な民衆には規律と先導者が必要なのです」
「あなたがやっているのは先導じゃなくて制裁よ!」
「だからなんです? 同じことじゃないですか」
「……あなた色々と間違っているわ!」
「いいえこれが正しいのです。正義が我らにあることは民衆が証明してくれます」
言うと、右腕の腕章を示した。
「性は人間を邪悪で下劣な獣に変えます。理性ある我々は連綿と続いてきた悪弊および自分自身を浄化し精算せねばなりません。今こそ性的結合を棄却するときがきたのです」
「そんなのあなたの身勝手な妄想でしょ!? 性を通じてでも人は愛し合えるはずです! わたしは彼とそれを今ここで証明します!」
「不要! わたくしの眼前での野卑で低俗な行為の一切を禁ずる!」
途端、窓からなだれ込んできた数人の団員が眼鏡っ娘の身を拘束した。地面へねじ伏せられた彼女のうめき声が漏れる。
「あなたを連行します」
その眼前に池内がしゃがみ込んだ。
「思想矯正プログラムを受けるのです。我々が清潔で正統な教育を提供いたします」
「ふざけないでよ!」
眼鏡っ娘はうつ伏せのまま、噛みつくように叫んだ。
「性別とか正義とかルールとか世界とか自意識過剰なんじゃないの!? 自分で自分を好き勝手にしていればいいじゃない、クマネコ団なんて同調圧力と憧れにもの言わせてるだけのカルトでしょ!? 偉そうに御託並べて、そんなのすぐにオワコンになるんだから、この、自意識過剰ブス! あんたがやってること全部、他人と社会を巻き込んだ壮大なオ○ニーよ!」
「……そんなの、したことありませんよ」
対し、池内は皮肉めいた笑みを浮かべた。
「そんなのしたことない。ねえ、あなた、初潮も来てないのに股から血が出る虚無と困惑がわかる?」
「な、なにを……」
眼鏡っ娘の開いた口へと白いハンカチが宛てがわれた。薄れゆく意識の中で、
「わたしはこの国を去勢する」
という池内の言葉が頭の中で静かに反響していた。
椅子に固定された手足がビクッと震える。額に不定期に落ちる雫が鼻筋に沿って流れ、口端へと伝った。
少女の目隠しがそっと外され、眼鏡をかけられると、視界にはスクリーンに投影されたその映像が。
《オオーウ、イエスイエス! カモン! カムヒア、カム、カム、カム! ファッ○ミー、ファッ○ミー、スパイシー! ワオ!》
画面の中の女優はなだらかに叫ぶ。パンッ、パンッ、と皮膚の弾ける音が水音と混じって響く。
少女はたまらず吐き出した。すでに空っぽな胃の内容物を、それでもひたすら搾り続けた。
「あああああああ! ああああ、ああーあーあー!」
もはや人語を発さない少女の拒絶が室内に響けば、防護服をまとった団員らは頷いて彼女の拘束を外した。
少女は解放された。返却された眼鏡を、しかし首を振って遠慮すると、素顔のまま早朝の街を歩き出した。
家に着いたとき、リビングにも廊下にも誰もいなかった。自室にたどり着いた彼女は椅子の上に体育座りになる。
学習机の引き出しからカッターナイフを取り出し、静かに腕を切ってから、それを抱きしめたままベッドへと身を沈み込ませた。
2025/11/22 20:52




