翼の生えた猫を吸う
「ほら、見て、グリコさん。これが『猫吸い』だよ」
そう悪戯っぽく笑うと、シグルズ君は、翼の生えた猫の体に顔を深々とうずめた。
窓の外では、中央塔の先端が、天空の深い霞の中に突き刺さっている。帝都ヤマト。人々はこの街をただ「帝都」と呼ぶ。
私は記録院に勤める官吏。名前をグリコと言う。
38歳になるまで異性と交わることなく、文書と印章に埋もれた日々を過ごしていた。男性に恋心を抱いたことがないわけではない。でも告白する勇気を持ったことは一度もなかった。
もちろん容姿も性格も目立たない私が、異性から告白をされることがあろう筈もなく。あ~あ、悲しいけれど、私という人間は、心も体も誰にも触れられることなく、このまま静かに老いていくのだな――そう思っていた。
そんな私が職場の後輩との食事会でたまたま出逢ったのが、愛玩モンスターの保護活動を続ける青年、シグルズ君だった。26歳の彼は、街の片隅で傷ついた小さな命を救い続けていた。出会って間もなく、私は、年甲斐もなく遥か年下の彼に心を寄せるようになった。
ある時、シグルズ君は真剣な眼差しで私を見詰めて言った。「グリコさん……僕は、あなたが好きです。ずっと一緒にいてください」10歳以上も年下の男性からの突然の告白に、私は息を呑んだ。まさか自分のような人間が彼に想いを寄せられるなんて――驚きと喜びで胸いっぱいになった。男性に縁のなかった私にとって、それは夢のような日々の始まりだった。
私の部屋には、一匹の年老いた翼猫がいる。名前はオボロ。かつて悪徳の繁殖屋に囚われ、散々交配をされ、子を産めなくなった途端に処分されかけた命を、シグルズ君が救い出したのだ。私は、2か月前に彼の勧めでオボロを自宅で保護することにした。飼ってはみたものの、私にまったく慣れようとしない老いた猫。かつては大空を羽ばたいていたという背に残る小さな翼を時折パタパタさせては、いつもソファでふてぶてしくくつろぐメス猫。ああ、憎たらしい。
記録院で古文書を扱ううちに、私は翼猫の進化について学んだ。昔の翼猫は確かに空を飛んでいた。都市の塔から塔へ舞い降りる姿が記録に残っている。だが都市が密集するにつれ、飛ぶより地上で生きるほうが有利になった。翼は退化し、代わりに俊敏な足と鋭い感覚を得た。やがて、その可愛らしい外見と自由気ままな性質に目を付けた人間たちが、翼猫を愛玩モンスターに品種改良して行った。
その夜、私は自宅にシグルズ君を招いてイチャイチャと過ごしていた。彼が『猫吸い』と称して、猫の体に顔をうずめて深く息を吸い込む姿は、滑稽で、愛おしかった。
「こうして猫の体臭を思いっきり嗅ぐのさ。猫の匂いは不思議と懐かしい匂いがする。すごく落ち着くんだ」
「私もやってみた~い」
私は、笑みを零して囁き、シグルズ君を押し退けてオボロに顔を近づける。間髪入れず、毛を逆立てシャーと威嚇するオボロ。
「こわっ。あ~もう、可愛くないったらありゃしない」
飛び跳ねて逃げる私を見て、笑いながらこれ見よがしに再度オボロに顔をうずめるシグルズ君。オボロはシグルズ君の顔は素直に受け入れる。その様子に嫉妬めいた感情が芽生え、私は冗談めかして言った。
「ずるい」
「うふふ。グリコさんも、こうして『猫吸い』してみたい?」
「違う。私も、猫みたいに吸って欲しい」
「な、な、なにを言い出すのだ、あなたは」
戯れは弾み、部屋の空気は甘く満ちて行く。この夜、私たちは初めて枕を共にした。私はただ、幸せだった。
――――
ある日、シグルズ君は、自分の将来の夢を私に熱く 語った。
「グリコさん……僕、いつか虐待された愛玩モンスターを保護する施設を作りたいのです」
「施設……?」
私は、驚いて問い返した。
「はい。もっと多くの命を救えるように。だから、協力してもらえませんか?」
彼の瞳は真剣で、私は胸を打たれた。
「もちろん。あなたの夢なら、私も一緒に叶えたい」
そう答えた瞬間、彼は子供のように笑って私の手を握った。
それから私たちは寝る間も惜しんで保護活動に励んだ。それから、私は長年使い道もなく貯めていた貯金を惜しみなく彼に提供し、半年後には土地を購入することが出来た。夢が形になり始めていた。
――ところが、ある夜。
――――
残業を終え、帝都の大通りを歩いていた私は、ふと前方に見慣れた姿を見つけた。シグルズ君。だが彼の隣には、見知らぬ若い女性がいた。街のネオンに照らされる彼女は、背がすらりと高く、整った顔立ちをしていた。私とは真逆のタイプ。
「……シグルズ君?」
思わず声を掛けた。彼は驚いたように振り返り、気まずい顔をした。
「グリコさん……」
「……どういうこと?」
私の声は震えていた。
「……ごめん」
「……誰、この娘」
彼は隣の女性に視線を送り、そして私に向き直った。女性はただ無表情のまま、瞬きもせず立っている。
「ごめん。実は……ひと月ほど前に保護活動を通じて知り合って以来、お付き合いをしている」
「か、彼女ってこと?」
「そう」
「そうって……、おほほ。随分ハッキリとおっしゃるのね」
隣の女性は無言のまま、ただ人形のように立ち尽くしていた。何よこの娘。あなたも少しは動揺しなさいよ。て言うか、まさかあなた、私の存在を知った上でシグルズ君とお付き合いをしていたの?
「分かんない。分かんない。私、滅茶苦茶パニクってます。え、嘘でしょう。じゃ、じゃあさ、私はどうなるの?」
「ごめん。僕、グリコさんのことは嫌いじゃない。本当に好きだったんだ。でも……」
「でも?」
恐る恐る理由を促す。
「僕ね、結婚したら子供が欲しい……」
その瞬間、胸の奥が冷たく凍りついた。
そそそ、そっか、そっか、そうだよね。私、もうそういうの微妙な歳だもんね。いや~驚いた。真っ向から正直にブチかますんだもん。もうすこしオブラートに包んでくれてもいいのにね。いや~マジでおでれーた。こんな心のえぐられかたは、生まれてはじめてよ。
「そっかー。そうだったんだー。だったら早くそう言ってくれればよかったのにー。なんか逆に、今日まで私の為に無駄な時間を使わせちゃってごめんねー。若くてかわいい彼女さんと末永くお幸せにー。よ、お二人さん、お似合いだよ、ひゅーひゅー」
精一杯おどけて見せる。
「じゃあね、シグルズ君、バイバ~イ」
奥歯を噛みしめて平然を装い、逃げるようにその場を後にする。あれ、おかしいな「このドロボウ猫!」と叫んで、あの女の頬をひっぱたいてやりたい気持ちなのに、私ったら笑っている。ヘラヘラヘラヘラ笑っている。おかしいな。おかしいな。――何の気なしにチラリと振り返ると、彼女がシグルズ君の腕に触れるのが見えた。
こんな時に限って天空からゲリラ豪雨。最低だ。最低最悪の日だ。ずぶ濡れになって夜の大通りを歩く。足元の石畳が、ヒールの音を冷たく跳ね返す。気づけば、見知らぬ横丁の酒場の前に立っていた。
「……こういう時はお酒を飲むのよね。うん、飲まなきゃ、やってられないわ」
自分に言い聞かせて扉を押し開ける。中は煙草と酒の匂いが混じり合い、空気が重たく沈んでいた。カウンターに腰を下ろし、メニューも見ずに適当な酒を頼む。琥珀色の液体が注がれたグラスが目の前に置かれた。
「よぉ、お姉さん、今夜はお一人?」
「いくらで付き合ってくれるの?」
酔いの回った男たちが、にやにやと笑いながら私を囲む。怖い。私は何も言えず、ただ立ち上がって店を飛び出した。背後から、笑い声と罵声が追いかけてくる。「なんだよ、澄ましやがって」「おばさんが一人で飲んでりゃ、そりゃあ男漁りかと思うだろ、なあ?」
私は、夜の街をすり抜けた。どこへ行けばいいのか分からない。泣きたいのに、涙が出ない。怒りたいのに、怒れない。やけになりたいのに、そんな若さは私にはない。
港へ行こうかと思った。夜の海を見ながら、ひとりで泣くのも悪くない。でも、そんな強さも持ち合わせていない。波と雨の音に紛れて泣くには、私はあまりにも臆病だった。
「……あはは。バっカみたい」
誰にともなく呟く。隙があったとしか思えない。年甲斐もなく甘い夢を見た。若い男に恋をして、未来を信じて、貯金まで差し出して。愛される資格なんて、最初からなかったのに。
結局、私は、いつものように真っすぐ家に帰った。
――――
下着までびしょ濡れ。鍵を回す手が雨で滑る。ドアを開けると、ソファの上で丸くなっていた翼猫のオボロが、玄関先で放心状態の私を、ちらりと見た。けれど、いつものようにふてぶてしく、ぷいっと顔を背ける。お帰りの挨拶もなし。
「……ただいま」
濡れた髪をかき上げて苦笑する。
「えへへ、私もあなたと一緒だわ。さんざん利用されて、使い道がなくなった途端に、ポイっと捨てられちゃった」
その言葉に、オボロがゆっくりとこちらを見た。さっきとは違う、どこか柔らかなまなざし。
「私もおばさん、あなたもおばさん。うふふ……お仲間ね」
すると、オボロが喉をゴロゴロと鳴らし始めた。私はそっとソファの前に膝をつき、震える指先でその毛並みに触れた。威嚇されるかと思ったのに、オボロはじっとしている。喉の下を撫でると、目を細めて気持ちよさそう。
「……かわいい」
小さな翼に指を添える。空を飛ぶことは出来ないけれど、その形はどこか神聖で、儚くて。
「素敵な翼ね」
そっと囁く。
「ねえ、オボロ……『猫吸い』してもいい?」
『はいはい、お好きなように』――そんな声が、聞こえた気がした。
私はそっと顔をオボロの体にうずめる。柔らかな毛並みが頬を包み、体温がじんわりと伝わってくる。鼻先に届いた匂いは、どこか懐かしくて、遠い昔の記憶を呼び起こすようだ。古い紙の匂い、雨上がりの土の匂い、愛しい人に抱きしめられた夜の匂い。
胸の奥が、じわじわと痛み始める。
「ねえ、オボロ……私、泣きそう。……泣くかも。……ダメだ~、もう泣く」
オボロは静かに喉を鳴らし続けている。。
私は顔を深く深くうずめて、堰を切ったように泣き始めた。止まらない嗚咽。涙が毛並みに染みていく。
「バカヤロウ……バカヤロウ……バカヤロウ……」
何度も叫び、泣きわめいた。オボロは、ただ私のすべてを受け止めてくれていた。
――――
翌朝。目覚ましのベルがけたたましく鳴り響き、私は重たいまぶたをこじ開けてベッドから起き上がった。頭がぼんやりしている。昨夜の涙がまだ頬に残っている気がする。部屋の空気は静かで、少し冷たい。
ソファには、いつものようにオボロが丸くなっていた。昨夜と同じ場所。て言うか、もともとそこ、私の席なんですけどね。
「えへへ。私たち、もう仲良しだもんね~。レッツ『猫吸い』ムチュムチュムチュ~」
おふざけで、昨夜のようにオボロの体に顔をうずめようとした瞬間――シャーッと威嚇され、おでこにピシャリと爪が走った。
「いった~い。何よ、昨日はあんなに優しかったのに」
『いつまでも甘えてんじゃないわよ。ガキじゃあるまいし』
そんな声が、オボロの喉の奥から聞こえた――気がした。
洗面台へ向かう。鏡に映る自分の顔は、泣きすぎで目がパンパン。冷たい水で顔を洗い、ひりひりするおでこに手を当てる。髪をかき上げると、そこにはくっきりと爪の痕。
今日はこの傷を隠すために前髪を下ろして出勤しようかな……と一瞬思ったけど、結局いつものように髪を後ろで束ねた。おでこ全開。これがいつもの私のスタイル。
だよね。こんな傷、隠すほどのことじゃない。こんな痛み、私にとっては大したことじゃない。私は大丈夫。私は平気。こちとら伊達に歳は取っていない。さあ、行くぞ、いつもの私。
ばっちりメイクで気分を上げて、でっかい鞄を抱えて家を出る。玄関の扉を閉めて少し歩いて、背後に視線を感じて振り返る。
やだ~、台所の窓から、オボロがじっとこちらを見ているんですけど~。お見送りとかしてくれちゃっているんですけど~。
「行ってきます!」
そう手を振ると、オボロは、飛べない翼を大きく羽ばたかせた。




