月影の約束
冬の夜。
月は澄み渡り、静かな光が町を包んでいた。
丘の上の古びた郵便局に、今夜も月見が現れる。
銀色の制服に白い帽子。肩には、まだ届けられていない手紙が詰まった皮の鞄。
その夜、彼が手にしていたのは、淡い桜色の封筒だった。
差出人の名前は「澄子」とある。
宛先は――「あなたへ」。
月見は目を細め、封筒をそっと開いた。
~ あなたへ。
もうすぐ、私はこの世を離れると思います。
体が少しずつ、静かに終わりに向かっているのがわかるのです。
あなたのことを、忘れた日はありません。
あの時、私は生きることを選びました。
家族を持ち、子を育て、孫に囲まれて、今は静かな日々を過ごしています。
それでも、夜になると、あなたの声を思い出します。
あの約束の言葉。あの笑顔。あの手の温もり。
亡くなったら、あなたに会えるかしら。
でも、それは夫に対して不義理かもしれない。
けれど、もしあなたが生きていたなら――
私は、もっと不義理をしてしまったのかもしれない。
あなたが生きているのか、もうわからない。
だから、私はこの手紙を月に託します。
もし、どこかで読んでくれるなら、それだけで十分です。
ありがとう。
そして、さようなら。
澄子より。 ~
月見は手紙をそっと鞄にしまい、夜の町を離れ、遠く離れた国へと向かう。
そこには、健一という名の男がいた。
彼は紛争地で負傷し、記憶の一部を失ったが、今は静かな村で花を育てながら暮らしていた。
時折、夢の中で「澄子」という名を聞くことがあったが、それが誰なのかは思い出せなかった。
その夜、月見は彼の家の前に立ち、手紙をポストにそっと差し込んだ。
月の光が彼の庭の花々を優しく照らしていた。
翌朝、健一はポストの中に見慣れない封筒を見つけた。
差出人の名を見て、胸がざわついた。
封を切ると、懐かしい言葉が並んでいた。
読んでいくうちに、記憶の断片が少しずつ戻ってくる。
澄子!!
桜の咲く丘で、未来を誓った人。
彼女の笑顔。彼女の声。彼女の手。
健一は、手紙を胸に抱きしめた。
そして、決意した。
数日後。澄子は病院のベッドで静かに過ごしていた。
窓の外には、雪がちらちらと舞っている。
その日、病室の扉が静かに開いた。
白髪混じりの男性が、ゆっくりと入ってくる。
澄子は目を細め、驚きと戸惑いの中で彼を見つめた。
「…健一さん?」
彼は微笑み、手に持った桜色の封筒を見せた。
「手紙、読んだよ。思い出した。全部じゃないけど…君のことは、忘れてなかった。」
澄子の目に涙が浮かぶ。
彼女は手を伸ばし、健一の手を握った。
その瞬間、窓の外の雪がやみ、月が顔を出した。
まるで、微笑んでいるかのように。
その夜、月見は丘の上の郵便局に戻っていた。
彼の仕事はまた一つ、終わった。
だが、鞄にはまだ、誰かの心に届かなかった言葉が残っている。
今夜もまた、月の光に乗せて、彼は静かに歩き出す。




