月の祈り
冬の夜。
冷たい風が町を吹き抜け、街路樹の枝には白い霜が降りていた。
吐く息はすぐに白くほどけ、静まり返った町の空気に溶けていく。
月は澄み渡り、凍てつく空にひときわ明るく浮かんでいた。
その光は、眠りについた家々の屋根を淡く照らし、
遠くの山の稜線を銀色に縁取っていた。
丘の上の古びた郵便局。
昼間は誰も近づかないその建物に
月の光が差し込むと静かに息を吹き返す。
その光の中に、月見が現れた。
銀色の制服に白い帽子。
肩には、まだ届けられていない言葉が詰まった皮の鞄。
彼の姿は風に揺らぐように淡く、けれど確かにそこに立っていた。
その夜、月見が手にしていたのは、一通の封筒だった。
薄い灰色の封筒。
角は少し丸まり、何度も手に取られた跡が残っている。
文字は震えるように綴られていた。
差出人:真理子
宛先:亡き弟・翔
翔は、まだ二十歳の若さで病に倒れた。
姉の真理子は、最後まで「大丈夫」と笑っていた弟の姿を忘れられなかった。
けれど、心の奥にはずっと後悔が残っていた。
― もっと話せばよかった。
― もっと寄り添えばよかった。
その思いを、彼女は便箋に綴った。
~ 翔へ。
あなたがいなくなってから、私はずっと自分を責めていた。
もっと優しくできたんじゃないか、もっと笑わせられたんじゃないかって。
でも、夢の中であなたが笑っているのを見たとき、少しだけ救われた。
だから、今度は私が祈るね。
あなたがどこにいても、笑っていてくれるように。
そして、私も少しずつ笑えるように。
ありがとう。
大好きだよ。
真理子より ~
月見は手紙をそっと鞄にしまい、夜の町へと歩き出した。
彼の足音は、風だけが知っていた。
冬の町は静かだった。
街灯の光が雪を薄く照らし、遠くで犬の鳴き声が一度だけ響いた。
月見はその音に耳を傾け、ふと空を見上げた。
「祈りの手紙か……」
彼は小さく呟いた。
祈りは、届けるべき言葉なのか、それとも胸にしまっておくべきものなのか。
月見は時折、そんな問いに立ち止まることがあった。
けれど、今夜の手紙は迷いなく“届けるべきもの”だった。
真理子の言葉は、後悔ではなく、翔への温かな願いだったから。
その夜、真理子は夢を見た。
夢の中で、彼女は雪の積もる小道を歩いていた。
白い息が空に溶け、足元の雪がきゅっ、と小さく鳴る。
空気は冷たいのに、どこか懐かしい温度があった。
ふと前を見ると、翔が立っていた。
白い息を吐きながら、穏やかな笑顔を浮かべて。
「手紙、読んだよ」
その声は、昔と変わらない優しい響きだった。
翔はゆっくりと歩み寄り、姉の肩に手を置いた。
「僕はずっと笑ってるよ。だから、姉ちゃんも笑っていいんだよ」
真理子の目に涙が浮かんだ。
けれど、その涙は悲しみではなく、温かさを含んでいた。
翔の手は、夢の中なのに確かに温かかった。
「翔……ありがとう」
彼女がそう呟くと、翔は少し照れたように笑った。
その笑顔は、真理子の心に静かに灯りをともした。
翌朝。
真理子はゆっくりと目を覚ました。
窓の外には、冬の澄んだ空が広がっていた。
夜の名残の月が、淡く輝いている。
彼女は深く息を吸い、静かに微笑んだ。
「翔、ありがとう。私も歩いていくね」
その言葉は、部屋の空気に溶け、やがて空へと昇っていった。
その夜、月見は丘の上の郵便局に戻っていた。
月の光が彼の肩を照らし、銀色の制服が淡く輝く。
彼の仕事はまた一つ、終わった。
けれど、鞄にはまだ、誰かの心に届かなかった言葉が残っている。
月見は静かに空を見上げた。
祈りのような光が、夜空に広がっていた。
今夜もまた、月の光に乗せて
彼は静かに歩き出す。




