前篇
よろしくお願いします。
小さな林檎
可愛い林檎
最初の林檎を得た勇者には、次に求婚する権利を与えよう。
目の前に、リンゴが落ちてきた。
童にとって、身の回りに置かれたものは全て自分への捧げものだった。
寂しくないように一人でも遊べる玩具を、お腹が空かないように沢山の食べ物を、甘いもの、辛いもの、しょっぱいもの、苦いもの。見ているだけでワクワクが止まらない色とりどりのお菓子に囲まれて。
捧げものの真ん中に、いつも童はいた。
だって、そこから出れないから。
だって、そこから出してもらえないから。
ずっと、そこにいるのだと思っていた。
ずっと、そこにいたのだから。
だんだん捧げものは色褪せて、会いに来る人も減り、それでも標縄だけは張り替えられる。
いつまでも、いつまでも、いつまでも。
ある日、優しいあの子が標縄が結ばれた串を倒してくれた。
慌てて直していたけれど、降って湧いた幸運で童の役目は終わったのだ。
外に出たのは、いつ振りだろう。
とても、星のキレイな夜だった。
その時から、童は星空が大好きになった。
あれから、好きなところへ行けた。
時々、優しいあの子が気になってあの子の元へ戻って来ては幸せであるようにと祈った。
やがて小さかったあの子もすっかり大人になって、子供が生まれ親になり、その子供に子供が生まれ、またその子供の子供に子供が生まれ……。
人の生の営みを傍らで見守る。
ある日、優しいあの子のずっと先のあの子が海の向こうへ行ってしまったことを知る。
海の向こうはどんな世界なのかな。
童がそう思いを馳せたら、ずっと先のあの子が住む街に立っていた。
小高い山の麓にある見知らぬ街の見知らぬ屋根の上から街を見下ろす。街の先は海に通じており、満天の星と明るい月が暗い海に煌めきを与えていて見ていて飽きない景色だった。
童は、星空が好きだ。
銀の月が随分東から西へと移動した頃。目の前に、リンゴが落ちてきた。
遠い異国の地で捧げもののをされるなんて思っていなかった童だが、哀しいかな身についた性で無意識に手を伸ばすとピカピカと光る真っ赤な木の実にかじりついていた。
「あ゛ーーっ!?」
頭上から聞こえた叫び声が、物凄い勢いで近付いてくる。童が大事にリンゴを両手で抱えたまま顔を上げると黒い衣装に身を包んだ美丈夫がマントを翻し舞い降りてくるのが見えた。
「食ったのか?!」
童の目の前に降りた青年は、今にも童に掴みかかろうとする勢いで手を広げて。しかし、既のところで相手に触れないよう動きを止めて童を窺い見る。
「たべた〜」
大仰に驚く相手に、童は手にしたリンゴを突き出して齧ったあとを見せた。
「マジか!」
「いけなかったぁ〜?」
パタパタと瞬いたあと、心配そうに首を傾ける童に青年は素直に食べていいと言うしかない。
「いや、食べていい。食べていいんだけど」
「けーどー?」
「なんともないか? 腹痛くなったりとか」
「へーきー」
こんな夜中に、屋根の上に子供がいるなんて思わなかった青年吸血鬼は、ただただ困惑した。
今宵は、サウィン。
夜に生きる者たちが、生者の中に紛れてもわからない日。多くのナイトウォーカー達が食事を愉しんでいることだろう。
この青年の容姿を模った吸血鬼も夏の収穫を祝う祝祭で喜びに輝く魂の上澄みを少しばかり摘ませて貰おうと出てきたのだ。
ただ来る途中、サウィンシェバトの準備に追われ浮かれるウィックド・ウィッチの館を覗いた。
扉には、ハーブのリースが掛かり、館の中にはハーブのブーケがこれでもかと吊り下がる。
テーブルの上に並ぶご馳走は、ジンジャーブレッドにバームブラックパン、クッキーにシナモンレーズンパン、ホットワインにヘーゼルナッツと葡萄の枝を添えて、カボチャ、カブ、林檎、ザクロと溢れんばかりで吸血鬼としては少々見ているだけで胸焼けがした。
なので、窓際に置かれた籠盛りのリンゴを一つ失敬して逃げてきたのだ。
このリンゴを小道具に、豊潤な魂の薫りがする人間を誘い出すつもりだったのだが、まさか空を飛んでいてコウノトリとぶつかりそうになるなんて。
避けた拍子に手に持っていたリンゴを落とした。普段なら残念だったで気にも止めない事だが、落ちていく先を目で追ったら子供がいたので驚いた。
大慌てでリンゴを追う。しかし、リンゴに追いつくより先にリンゴを拾った子供が口にする方が早かった。
魔女から勝手に頂いてきたリンゴだから毒でも塗ってあるかと思ったが、大丈夫だったようだ。
吸血鬼は、ヤレヤレと胸をなでおろす。
童がシャリシャリと音をたててリンゴを齧る姿は、リスのようで可愛らしい。とんと人間など、ただの食糧くらいにしか見ていなかったからこの感覚は新鮮だ。
「甘いか?」
「うん〜」
問えば素直に頷く。
しかし、この子供が纏う衣裳はなんとも奇妙だ。何時だったか、蒸気船に乗ってやって来た遠い異国の旅人が着ていた衣に似ている。
見た感じ、歳は五つくらいだろうか。肩の上で切り揃えられた髪は艷やかに光を孕み、子供特有の丸みを帯びつつも細い手足は労働を知らない身体に見えた。
大切に育てられた子供なのだろう。
「お前、どこから来たんだ?」
「どーこー?」
「この街の子供じゃないだろ」
「こどもじゃない〜〜」
「〜〜っっ、だからっ」
進まない会話に、はくはくと口を動かした吸血鬼は諦めて脱力した。
「もういい」
そもそも、何故この子供を家まで送り届けてやろうなどと考えたのだ。自分の気の迷いのような思いつきが怖い。
こんな時間に、屋根の上に子供がいるということ自体が異常なのに。
「……まさか、お前!」
屋根の上に子供がいる可能性に、一つだけ行き当たった。
「パンに置き去りにされたのか?!」
今日は、異界の扉が開く日だ。みんな浮かれて紛れ込む。あのクソドS野郎も意気揚々といつもより多くの子供達を連れ出して島へと向かったのかも知れない。
「パン〜?」
「ピーター・パンだよ、葉っぱの服を着た」
「葉っぱの服……」
童は、葉っぱの服と言われても分からないが、笹の葉っぱを背負った猪笹王や芭蕉の葉っぱそのものに顔がついた芭蕉精なら思い当たる。しかし、どちらともここ百年ばかりは会っていないと童は首を傾けた。
「しらない〜〜」
「またか」
ガクリと項垂れる相手に申し訳なくなって童は半分ほど食べたリンゴを差し出す。
「食べる〜?」
「いらねーし!」
吸血鬼が口を開けたところに、童はリンゴを押し込んだ。
「ほま、ほふでほふんふぁ」
バリバリとリンゴを噛み砕く。童から見れば程よい大きさのそれだが、吸血鬼なら三口でリンゴの半分は無くなる大きさだ。
全くもって、子供というのは忌々しい。
口にリンゴを突っ込まれ、不可抗力とはいえ食べてしまった吸血鬼は、困惑と気恥ずかしさに顔を歪め、元凶たる童をいっそ喰ってやろうかと小さな肩を掴んで抱き寄せた。
「お前なぁ、俺とリンゴを食ったってことはどういうことかわかってるのか?」
元は魔女のリンゴだが、そこは無かったことにする。
「リンゴ〜くれた〜」
「まぁ、そもそも俺がリンゴ落とさなきゃ……って、うっせぇ」
童の顎を掴み上を向かせ、首筋を露わにさせると本気で噛み付いたら確実に折れるだろう細い首に顔を近付けた。
「くーるーしーいぃー」
鼻先で首に触れ動脈を探す。吸血鬼なんて言われているが、別に血を吸う事が第一じゃない。単に血と一緒に流れ出る生命力が腹を満たすから効率よく得るために血を啜るだけだ。
「お前」
そこで、この子供が他の人間と比べ異質だと気が付く。
スンと鼻を鳴らし匂いを嗅ぐ。やはり、人間らしい匂いは一切しなかった。無臭と言ってていい。人ならば、生きていれば必ずする匂いが一切しない。
しかし、死人の匂いはしないし、夜の住民でもなさそうだ。吸血鬼の中で、ますますこの子供に対して謎が深まる。
「くすぐったーいー」
「あ、ごめん」
つい謝って身体を離し、はたと我に返った。
「いや、だから何で俺が謝ってんの?」
どうにもこの子供といると調子が狂う。
「ささげものくれた〜ねがいごと〜かなえるよ〜」
「ん?」
「おねがい〜な〜に〜」
「願い……。願い、ね」
鼻で笑いそうになるのを堪える。まったくもって謎だらけの子供を前に、屋根の上であぐらをかきすっかり寛いだ吸血鬼は、どうしたものかと自身の顎に手をやり親指の腹で顎を撫でながら考える。
「まぁ、そうだなぁ」
子供の頭に手を置くと手触りのいい絹のような髪を手荒く掻き混ぜた。
「あと十年経ったら、だな」
「十年〜〜?」
適当に掻き混ぜて手を離しても、子供の髪は何事もなかったかのようにスルリと解けて元に戻る。なんとも素直で、真っ直ぐであることに頑固な髪だと感心した。
「お前、五つくらいだろ。流石に子供すぎるからなぁ、あと十年は過ぎて……そうだな、十七くらいが丁度いいか」
「十七〜〜?」
「おう。そんくらいになったら、喰いに行ってやる」
「くう〜?」
「頭からバリバリとな!」
「えぇーっ」
「嘘だよ」
驚いて目を丸くする子供の前髪をかきあげて、額に唇を落とす。流石にこんな幼子の唇に口付けるのは躊躇われた。
「これは、目印だ」
吸血鬼の口付けは、特別な意味を持つ。
「どこにいても、どれだけ時間が経っても、どう容姿が変わろうとも」
なんでリンゴを喰っちまったんだろうな。ただ拾っただけなら助かったのに。
なんで俺にまで食わせちまったんだろうな。勢い余って、噛み砕いて飲み込んじまっただろうが。
特別な日に行われるそれは、求愛の儀式だ。
どう見ても異国の子供は、知らなくて当たり前か。
ならば、仕方がない。
ならば、しようがない。
吐き出すことも出来たリンゴを構わず飲み込んだ。それが無意識の答えなのだから。
「俺はお前を、必ず見付けるから。それまで待ってろ」
ボンヤリと吸血鬼を見上げていた童は、コクリと頷いた。
「かえる」
スクッっと立ち上がった童は、吸血鬼から離れて屋根の上を歩き出す。
「ンぁ? お前、どっちから来たかわかってるのか? ってか、ここ屋根の上だ。パンがいないと飛べないだろ、アブナイから勝手に歩くな」
「たぶん〜かえれる〜」
「多分って」
トコトコと歩き、屋根の端まで来た童は異国の鬼を振り返った。
「すがた〜十七〜なれるよう、がんばる〜〜」
優しいあの子たちを見てきたから、人の成長は分かる。しかして、自分も同じ様に成長出来るかといったら話は別だ。
気が付いた頃からずっと童は同じ姿だ。そういうものなのだと思っていたし、誰もが幼子たる童を望んだ。
初めて成長した姿を望まれたから、出来るかどうかは分からないけれど、頑張ってみようと思う。
「あと〜待ってる〜。それが〜おねがい〜?」
「ん? ん??」
童が言っていることを理解出来ない吸血鬼だが、流れに任せて一応頷くと童は花がほころぶように笑ってみせた。
「まーたーねー」
約束をした相手に手を振って子供は軽く屋根を蹴る。フワリと浮き上がった小さな体に、慌てた吸血鬼が一足飛びに距離を詰め手を伸ばした。
「アブねぇ!!」
しかし、伸ばされた指先は、童の体を捉えることはなく宙を掻く。
「……ウソだろ」
子供がいた場所に残されたのは、妖精の羽の煌めきに似た極小の光だけだった。
それもすぐに風と消えて、何も残らない。
「なんで……」
呆けた顔をしながら吸血鬼は、童が楽しそうに見ていた海へと目を向けた。
「なんで、海の向こうにいるんだよぉーーッ」
初めて贈った吸血鬼の接吻は、その役目をきちんと果たしているようだ。
吸血鬼の叫びに呼応するように、吸血鬼が人間だった頃から一緒にいる人狼の遠吠えが聞こえる。
彼もまた、この夜で愛を囁く相手を見つけたのかも知れない。
吸血鬼は、海を渡れない。
この最大の難問をどう解決するか悩んでいる内に、サウィンは終わり人々は冬仕度を始めた。
考える事が面倒になった吸血鬼は、問題を後回しにあの子供が育つだろう十年を寝て待つ事にしたのだが……。
ちょっぴりドジっ子な吸血鬼は、うっかり百二十年ほど寝てしまった。
慌てて飛び起きた彼を、狼と人を行ったり来たりする彼の弟が呆れた顔で迎えたとかなんとか。
普通の人間なら、疾うの昔に天に召されているはずなのに、変わらず海の向こうからはあの子供の気配がして驚くと同時に愛おしさが込み上げる。
拗らせてます、この吸血鬼。
さて。そんな吸血鬼ですが、寝ている間に人狼と暮らしていた城に、優しすぎたことで堕天してしまった元天使と、裏切られたことで愛が反転してしまった妖精の王までが住み着いていて驚かされたり、
「百二十年も過ぎていたら、環境が変わっていて当然だと思うが……」
「寧ろ、変化のない方が怖いですね」
呆れる人狼の横でモルドワインを手にフワフワと漂う元天使が皮肉げに笑う。
背中の翼、パタパタしなくとも飛べるんだー。え、飾り? 飾りだったら邪魔じゃね? と、吸血鬼の目は元天使の背中の羽根に釘付けである。
「吸血鬼は、注意事項さえ守れば、ほぼ不死の存在だ。のんびりとした性格なのだろうな」
ちょっと尊大な語り口は妖精の王だ。
しかし、その口調に合った見た目をしており吸血鬼としては眩しさに文句を言えない。
シミ一つない雪のような白い肌と白銀色の髪。瞳は銀の月のよう。まさに陶器で出来た人形のようだが、その身に纏うのは漆黒の炎で織られた衣。子どもを拐う魔王の呼び名に相応しい。
ついうっかりで、百二十年も寝てしまって申し訳なかったと心のなかで反省していた吸血鬼だが、意外に賑やかに日々を過ごしてきたと思われる人狼に胸を撫で下ろす。
寂しがり屋の彼が、一人でなくてよかった。
三人の馴染みきったやりとりを見て感慨に浸っていると扉が壊れるのではないかという音を立てて勢いよく開かれた。
「こんばんはーす! なになになに、なんか楽しいことすんのー?」
元天使の友人で幽霊船を操る海賊の亡霊である。
「もう少し、静かに登場できないの?」
「えー、ムリー」
「……ムカつく」
ニャハハと笑う海賊に目を座らせる元天使。
やはり、なんやかやで毎日大騒ぎだったようだ。
「ヴルコラク」
「なんだ?」
「よく俺、起きなかったな」
思わずと言った具合の兄の言葉に、弟は柔らかく口元を緩めた。
「ああ、よく寝ていたよ。余程、疲れることがあったのだろう」
「そうか」
唇を尖らせ、納得いかないという顔を見せる吸血鬼に人狼は笑う。
彼には、言っていないが妖精王の見立てでは、吸血鬼を吸血鬼たらしめている霊核が半分以上削られ、消失の危機に遭ったらしい。
それを眠ることで修復し補っていたのだとか。
『なにやら、とんでもない願いを抱いたのではないか?』
妖精王が推測したとんでもない願いが、まさか海を渡っての異類婚姻譚に発展しようとは。吸血鬼が眠る前に出会った子どもの話を聞いていなかった人狼たちは知る由もなく。
なんやかやで吸血鬼が棺桶に詰められて幽霊船で海を渡る事になったりするのですが――――。
そのお話は、またいつか。