第8話「夫人の迷い」
春の終わり、リディアは久しぶりに自らの足で庭に出た。
庭の木蓮が薄紅色の花を咲かせ、風にそよぐたびにかすかな香りを運んでくる。
「……外の空気も、悪くないわね」
陽の光に、まだ少しだけ眩しそうに目を細めながら、彼女は石畳の道をゆっくり歩いた。
顔色は以前よりもほんのりと赤みを帯び、痩せた肩にもほんの少し力が戻ってきていた。
けれど――その瞳は、手元にある一通の手紙に注がれていた。
エリオットからの、百三通目の手紙。
『君の歩き方、微笑む瞬間、話す声。
私は、すべてを記憶している』
『君の指が震えていたことに、気づくのが遅れた。
だが、忘れたことは一度もなかった』
手紙は、これまでのどれよりも静かで、優しく、切実だった。
装飾も飾りもなく、ただ彼のまっすぐな気持ちだけが、そこに綴られていた。
(こんなふうに、私を見ていたの……?)
指先が、便箋の角をゆっくりとなぞる。
ふと、リディアの脳裏に、ひとつの記憶がよみがえった。
結婚式の数日前――
彼女はドレスの最終試着を終えて、控室で鏡を見つめていた。
そのとき、扉の外にいた彼がふと現れ、彼女の姿を見つけて立ち止まった。
「……綺麗だな」
ぽつりと漏らした、その声。
「え?」
「……ドレス、とても似合っている」
頬を少し赤らめながら、視線を逸らしていた彼。
(……ああ、あのとき。たしかに、あの瞳は……)
優しかった。
まっすぐで、不器用で、でも、嘘のないまなざしだった。
彼女は胸に手を当てる。
何かを確かめるように、そっと押さえる。
(私は――もう、彼のことを嫌いになったはずだった)
けれど、それが本当に「終わった」感情なら、こんなにも、心が揺れるはずがない。
それは、まだ愛しているということなのだろうか?
答えは出ない。
でも、もう“無関心”ではいられないことだけは、はっきりしていた。
夕暮れ時。
リディアは窓辺で、紅茶を口にした。
ふと、机の上の便箋が目に入る。
返事を書こうか――そう思った。
けれど、ペンを取った指が途中で止まる。
(もし、またすれ違ってしまったら……)
恐怖が、指先を止めた。
期待してしまうことが怖い。
裏切られることより、自分がまた傷つくことが怖い。
それでも――
彼の言葉が、確かに彼女の心に届いている。
それは紛れもない事実だった。
その夜。
リディアは夢を見た。
初めての夜。
ぎこちなく布団の端を譲ってくれた彼。
彼女の寝息に合わせて、そっと呼吸を整えた彼。
(……あのときも、優しかった)
目覚めたとき、彼女は小さく息を吐いた。
「……どうして、こんな夢を」
手のひらを見つめる。
まだ、終わっていない。
いや、もしかしたら――
終わらせたくなかったのかもしれない。