表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/19

第8話「夫人の迷い」

春の終わり、リディアは久しぶりに自らの足で庭に出た。

庭の木蓮が薄紅色の花を咲かせ、風にそよぐたびにかすかな香りを運んでくる。


「……外の空気も、悪くないわね」


陽の光に、まだ少しだけ眩しそうに目を細めながら、彼女は石畳の道をゆっくり歩いた。

顔色は以前よりもほんのりと赤みを帯び、痩せた肩にもほんの少し力が戻ってきていた。


けれど――その瞳は、手元にある一通の手紙に注がれていた。


エリオットからの、百三通目の手紙。


『君の歩き方、微笑む瞬間、話す声。

私は、すべてを記憶している』


『君の指が震えていたことに、気づくのが遅れた。

だが、忘れたことは一度もなかった』


手紙は、これまでのどれよりも静かで、優しく、切実だった。


装飾も飾りもなく、ただ彼のまっすぐな気持ちだけが、そこに綴られていた。


(こんなふうに、私を見ていたの……?)


指先が、便箋の角をゆっくりとなぞる。


ふと、リディアの脳裏に、ひとつの記憶がよみがえった。


結婚式の数日前――

彼女はドレスの最終試着を終えて、控室で鏡を見つめていた。


そのとき、扉の外にいた彼がふと現れ、彼女の姿を見つけて立ち止まった。


「……綺麗だな」


ぽつりと漏らした、その声。


「え?」


「……ドレス、とても似合っている」


頬を少し赤らめながら、視線を逸らしていた彼。


(……ああ、あのとき。たしかに、あの瞳は……)


優しかった。

まっすぐで、不器用で、でも、嘘のないまなざしだった。


彼女は胸に手を当てる。

何かを確かめるように、そっと押さえる。


(私は――もう、彼のことを嫌いになったはずだった)


けれど、それが本当に「終わった」感情なら、こんなにも、心が揺れるはずがない。


それは、まだ愛しているということなのだろうか?


答えは出ない。

でも、もう“無関心”ではいられないことだけは、はっきりしていた。


夕暮れ時。


リディアは窓辺で、紅茶を口にした。


ふと、机の上の便箋が目に入る。


返事を書こうか――そう思った。

けれど、ペンを取った指が途中で止まる。


(もし、またすれ違ってしまったら……)


恐怖が、指先を止めた。

期待してしまうことが怖い。

裏切られることより、自分がまた傷つくことが怖い。


それでも――


彼の言葉が、確かに彼女の心に届いている。

それは紛れもない事実だった。


その夜。

リディアは夢を見た。


初めての夜。

ぎこちなく布団の端を譲ってくれた彼。

彼女の寝息に合わせて、そっと呼吸を整えた彼。


(……あのときも、優しかった)


目覚めたとき、彼女は小さく息を吐いた。


「……どうして、こんな夢を」


手のひらを見つめる。


まだ、終わっていない。


いや、もしかしたら――

終わらせたくなかったのかもしれない。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ