表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/20

第7話「すれ違いの記憶」

あの夜のことを、リディアは今も鮮明に覚えていた。

病がちだった彼女にとって、高熱に浮かされた夜は幾度もあった。

だが――あの夜は、少し違っていた。


彼の気配がなかった。


ふらつきながら寝台を抜け出し、部屋の扉に手をかける。

誰かの足音が通り過ぎるたびに、(彼だろうか)と胸が跳ねた。


けれど、彼は来なかった。


「少しでいいから、顔を見せてほしい……」


そう願っていた。

熱と心の痛みに、彼の声だけでも救いになったはずだった。


そして翌朝――


侍女の支えで庭に出た彼女の目に映ったのは、

中庭の片隅で談笑する、エリオットとミレーネの姿だった。


ミレーネは柔らかく笑いながら、エリオットの腕にそっと触れた。


その光景は、リディアの胸を鋭く貫いた。


(……ああ、私は、もう必要ないのだ)


彼はもう、笑っていない妻より、笑ってくれる女を選んだのだと――

そう思い込むには、十分すぎる情景だった。


その夜、リディアは離婚の決意を固めた。


だが、あの夜。

エリオットにも、まったく異なる記憶があった。


リディアが倒れたことを知ったのは、外出先だった。

「すぐに戻ります」と使用人から連絡を受け、急ぎ馬車に飛び乗った――が、

その道中、車輪が外れ、足止めを食らった。


屋敷に戻ったときには、すでに夜が明けかけていた。


彼女は自室の寝台で静かに眠っていた。

医師の処置で熱が下がり、侍女が安堵の表情を浮かべていた。


彼はそっと寝室に入ると、寝台の傍らに膝をついた。


「大丈夫……もう大丈夫だ」


震える声でそう呟き、額に触れた指先が熱を確かめる。

その体温がほんの少し下がっていることに、胸を撫で下ろした。


(もう少し、早く戻れれば……)


けれど、起こすのは忍びなく、ただ静かに彼女の髪を撫でた。


その後、ミレーネから「奥様の回復は私の祈りのおかげかしら」などと軽口を叩かれ、

エリオットは礼儀として彼女に言葉をかけた。

そして――その会話の最中、ミレーネが彼の腕に触れたのだった。


ほんの一瞬。

ほんの軽い接触。

だが、それを妻が見ていたとは、思いもしなかった。


「……すれ違っていたのね」


リディアは、机の上に積まれた手紙の束を見つめていた。


自分が“見た”ことと、彼の“していた”ことが、これほどまでに食い違っていたのだ。


何一つ言わなければ、相手に伝わることはない。

何も尋ねなければ、相手の本音もわからない。


(あのとき、ちゃんと話していれば……)


そんな後悔は、今さら言っても仕方のないことだった。


でも、心の奥に沈んでいた怒りのいくつかが、

ひとつ、またひとつと、ほどけていくような気がしていた。


一方、エリオットは今日も手紙を書いていた。


『君があの夜、どれだけ苦しんでいたかを、私は知らなかった。

だからこそ、あの庭で見た光景が、君の心にどれほどの痛みを与えたか――

想像するだけで、胸が苦しくなる』


『私は、君に触れたくて、近づこうとしたことが何度もある。

だが、君があまりに綺麗で、あまりに儚くて、

私のような不器用な男が触れていいのか、怖かった』


『それでも、今なら言える。君を愛している。

君の痛みを、もう二度とひとりにしないと、誓う』


リディアの手元に、その手紙が届いたのは翌日だった。


封筒の裏に記された日付と、ほんの少し歪んだ筆跡に、

彼の心がにじみ出ているように感じた。


彼女はゆっくりと、それを読み終えると――

机の引き出しに、そっとしまった。


心のなかで、まだ返事を出すことはできなかった。

けれど、もう“読まない”とは思わなかった。


彼の言葉を、受け止めたいと思い始めている自分がいることを、

リディアは、静かに認めはじめていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ