第7話「すれ違いの記憶」
あの夜のことを、リディアは今も鮮明に覚えていた。
病がちだった彼女にとって、高熱に浮かされた夜は幾度もあった。
だが――あの夜は、少し違っていた。
彼の気配がなかった。
ふらつきながら寝台を抜け出し、部屋の扉に手をかける。
誰かの足音が通り過ぎるたびに、(彼だろうか)と胸が跳ねた。
けれど、彼は来なかった。
「少しでいいから、顔を見せてほしい……」
そう願っていた。
熱と心の痛みに、彼の声だけでも救いになったはずだった。
そして翌朝――
侍女の支えで庭に出た彼女の目に映ったのは、
中庭の片隅で談笑する、エリオットとミレーネの姿だった。
ミレーネは柔らかく笑いながら、エリオットの腕にそっと触れた。
その光景は、リディアの胸を鋭く貫いた。
(……ああ、私は、もう必要ないのだ)
彼はもう、笑っていない妻より、笑ってくれる女を選んだのだと――
そう思い込むには、十分すぎる情景だった。
その夜、リディアは離婚の決意を固めた。
だが、あの夜。
エリオットにも、まったく異なる記憶があった。
リディアが倒れたことを知ったのは、外出先だった。
「すぐに戻ります」と使用人から連絡を受け、急ぎ馬車に飛び乗った――が、
その道中、車輪が外れ、足止めを食らった。
屋敷に戻ったときには、すでに夜が明けかけていた。
彼女は自室の寝台で静かに眠っていた。
医師の処置で熱が下がり、侍女が安堵の表情を浮かべていた。
彼はそっと寝室に入ると、寝台の傍らに膝をついた。
「大丈夫……もう大丈夫だ」
震える声でそう呟き、額に触れた指先が熱を確かめる。
その体温がほんの少し下がっていることに、胸を撫で下ろした。
(もう少し、早く戻れれば……)
けれど、起こすのは忍びなく、ただ静かに彼女の髪を撫でた。
その後、ミレーネから「奥様の回復は私の祈りのおかげかしら」などと軽口を叩かれ、
エリオットは礼儀として彼女に言葉をかけた。
そして――その会話の最中、ミレーネが彼の腕に触れたのだった。
ほんの一瞬。
ほんの軽い接触。
だが、それを妻が見ていたとは、思いもしなかった。
「……すれ違っていたのね」
リディアは、机の上に積まれた手紙の束を見つめていた。
自分が“見た”ことと、彼の“していた”ことが、これほどまでに食い違っていたのだ。
何一つ言わなければ、相手に伝わることはない。
何も尋ねなければ、相手の本音もわからない。
(あのとき、ちゃんと話していれば……)
そんな後悔は、今さら言っても仕方のないことだった。
でも、心の奥に沈んでいた怒りのいくつかが、
ひとつ、またひとつと、ほどけていくような気がしていた。
一方、エリオットは今日も手紙を書いていた。
『君があの夜、どれだけ苦しんでいたかを、私は知らなかった。
だからこそ、あの庭で見た光景が、君の心にどれほどの痛みを与えたか――
想像するだけで、胸が苦しくなる』
『私は、君に触れたくて、近づこうとしたことが何度もある。
だが、君があまりに綺麗で、あまりに儚くて、
私のような不器用な男が触れていいのか、怖かった』
『それでも、今なら言える。君を愛している。
君の痛みを、もう二度とひとりにしないと、誓う』
リディアの手元に、その手紙が届いたのは翌日だった。
封筒の裏に記された日付と、ほんの少し歪んだ筆跡に、
彼の心がにじみ出ているように感じた。
彼女はゆっくりと、それを読み終えると――
机の引き出しに、そっとしまった。
心のなかで、まだ返事を出すことはできなかった。
けれど、もう“読まない”とは思わなかった。
彼の言葉を、受け止めたいと思い始めている自分がいることを、
リディアは、静かに認めはじめていた。