第6話「噂と真実」
帝都の社交界に、ある噂が駆け巡った。
「公爵と伯爵令嬢は恋仲だった」
発端となったのは、当の伯爵令嬢――ミレーネ・フォン・カーヴィル。
病弱な妻の影で、公爵の“心の隙間”を埋めていたと、しおらしい口調で語ったのだった。
「ええ、公爵様とは親しくさせていただいておりましたの。
奥様が療養されている間、淋しさを私に打ち明けてくださって……」
まるで、捨てられた愛人を演じるかのような、しっとりとした演技。
その言葉は、一部の社交婦人たちの間で同情を集め、瞬く間に広がっていった。
しかし――その噂は、リディアの耳にも届いていた。
「……公爵様が?」
侍女が恐る恐る口にしたとき、リディアの紅茶のカップが音を立てて揺れた。
「もう関係ないわ、終わったことよ」
取り繕うように笑ったが、胸の奥では何かがざわついていた。
(今さら……ミレーネはどうしてまた蒸し返すような事を?)
百通に及ぶ手紙を受け取っているとはいえ、信頼は簡単に戻らない。
だからこそ、この噂は鋭い棘のように彼女の心を刺した。
一方、エリオットは沈黙していた。
何も弁解しなかった。
だが、それは“無視”ではなく――機会を窺っていたのだ。
「公爵様、噂が流れています」
側近が進言したとき、彼はゆっくりと頷いた。
「……公の場で、すべて話す」
数日後、春の終わりを祝う夜会が開かれた。
そこに、ミレーネも出席していた。
勝ち誇ったような表情で、人々の視線を浴びながら微笑む。
「ええ、公爵様とは……まあ、言えませんわ。ご想像にお任せします」
意味深な笑顔が、好奇の目を煽る。
だが、会の終盤――その空気が一変する。
エリオット・グランツ公爵が、壇上に立ったのだ。
「皆さま、少しだけ、お時間を頂きたい」
ざわめく会場。
その中で、彼ははっきりとした声で言い放つ。
「私とカーヴィル家の令嬢の間に、恋愛関係は一切ございません」
一瞬、沈黙。
そして、低いどよめき。
「私はただ、妻との関係をより良くするため、“どうしたら女性は喜ぶか”を聞いたまでです。
当時の私は、女心というものにまったく無知でしたから」
場内の空気が凍る。
「令嬢には、好意を寄せていただいていたようですが、私にはそのつもりはありませんでした。
私は、リディア・グランツ――元妻しか、見えていませんでしたから」
その言葉は、まるで剣のように会場の空気を切り裂いた。
ミレーネの顔が、青ざめ、次に真っ赤に染まる。
「そんな……わたくしは、ただ……!」
言い訳を口にする前に、場の視線が突き刺さる。
彼女は恥じらいと怒りに震えながら、会場を飛び出した。
翌朝の新聞には、こう記されていた。
『公爵、誤解を解く――真実の愛は今もなお』
その記事は、リディアのもとにも届いた。
侍女がそっと差し出した紙面を見つめる。
「……なぜ、わざわざ公の場で……?」
呟きながら、彼女は小さく息を吐いた。
(あの人らしい……不器用だけれど、真剣で。馬鹿みたい)
自分だけに言えばよかったのに。
でも、言えなかった、いや、言わせなかったのは私だ。
(でも…)
彼女の胸に、ひとしずくのぬくもりが生まれた。
まだ、赦したわけではない。
けれど、新聞の文字は――確かに、彼女の心を少し揺らした。
「……もっと早くに言ってくれればよかったのに」
そう呟いた声は、夜の静寂に吸い込まれていった。