第3話「再会は舞踏会で」
帝都に春が訪れると共に、貴族たちの間で最も注目される社交イベント――大舞踏会が催された。
年に一度、宮廷で開かれるこの夜会は、リディアの社交界への“復帰”を意味する場でもある。
リディアは迷っていた。
静養中の身で、舞踏会など出るべきではない。
けれど、兄の言葉が背を押す。
「リディア、お前が“もう大丈夫だ”という意思を見せねば、いつまで経っても“可哀想な元公爵夫人”のままだ」
“私を可哀想だなんて思わないで”――
そう願っていたのは、他でもない彼女自身だった。
当日、リディアは淡いラベンダーのドレスを纏っていた。
どこか花のように可憐で、それでいて儚さを帯びた装い。
高熱で寝込むたびに落ちた体重は、彼女をより一層か弱く見せた。
「……無理はなさらないでくださいませね」
付き添いの侍女が心配そうに見つめる。
リディアは微笑んで頷いた。まるで、自分を鼓舞するように。
会場の一角、柱の陰に身を置き、彼女は人々の談笑を眺めていた。
笑い声、グラスの音、弦楽四重奏。
すべてが遠くの世界の出来事のように、どこかぼやけている。
(これでいいの。誰にも気づかれずに……ただ、ひとときを過ごせれば)
そう願っていた。
けれど、その願いは、あまりにも簡単に破られる。
「……来てくれたのか」
その声に、リディアの背筋が凍った。
振り向かずとも、誰の声か分かってしまう――
そういう記憶ほど、厄介なものはない。
「エリオット様……」
名を呼ぶだけで、胸が痛む。
彼の姿が視界に入った瞬間、息が浅くなった。
「なぜここに?」
「君が来ると聞いて。……どうしても、話したかった」
リディアは一歩下がった。
自分の領域を、ほんのわずかでも保つために。
「公の場です。今さら何をおっしゃるつもりですか?」
「君に、謝りたい。そして……もう一度だけ、話を聞いてほしい」
周囲の視線が、じわじわとこちらに集まってくるのを感じる。
それでもエリオットは、気にする様子もなく、彼女に手を差し伸べた。
「リディア、お願いだ。少しだけでもいい」
まるで、愛しい人に求婚するかのような、真摯な眼差し。
リディアはその手を見つめ、少しだけ、目を伏せた。
そして――取らなかった。
「……あなたの“お願い”には、疲れました」
その言葉に、エリオットの手がわずかに震える。
「君の幸せを願っていた。……それだけだったんだ」
「なら、なぜ私を傷つけたの?」
沈黙。
彼の唇が何かを言いかけて、止まる。
「なぜ、他の女性の手を取ったの?」
「違う。それは――」
「その女と、夜中まで会っていた?」
「……誓ってやましいことは――」
「私が一人苦しんでいたあの夜、あなたは帰って来なかった」
あの日、リディアは熱で意識を失っていた。
召使が手配した医師が駆けつけるまで、彼女はずっと孤独だった。
それでも、信じたかった。
でも、彼は現れなかった。
そして翌日、あの女性と並ぶ彼の姿を目にした。
「誤解だったと、今なら思える。だけど、あの時の私には……」
リディアの目元がわずかに潤む。
けれど、その涙はこぼれない。
「エリオット様、私、もう“頑張る”ことに疲れてしまったのです」
それが、彼女の本音だった。
「あなたに愛されたい、と願うことに。
選ばれたい、と思うことに。
“妻としてふさわしくある”ことに――疲れてしまったの」
エリオットは何も言えなかった。
どれだけ言葉を尽くしても、彼女の傷には届かないと分かっていた。
「ごきげんよう、公爵様。今夜はどうぞ、他の方と踊ってくださいませ」
そう言って、リディアはくるりと背を向けた。
ラベンダーのドレスが揺れ、やがて彼の視界から消えていく。
その背を、エリオットは、ただ立ち尽くしたまま、見送った。
夜の終わり、リディアはひとり、馬車の中で窓を見つめていた。
外の風景が流れていく。
でも、心の中に残っていたのは、彼のあの、悲しそうな瞳だった。
(私たちは、もう二度と、戻れないのよ)
ただ、静かに、馬車は実家への道を進んでいった。