第2話「男はもうこりごり」
夜が更けても、エリオットの心は安らぐことはなかった。
離婚からわずか数日。彼は、空虚な屋敷の中でひとり、亡霊のように彷徨っていた。
彼女が最後に触れていた椅子。
香水の残り香がかすかに漂うドレッサー。
日記帳が、机の上に開かれたままだった。
震える手で、そのページをめくる。
“今日も彼は私を見てくれなかった”
淡いインクで書かれた文字が、心を切り裂いた。
「なぜ……なぜ、もっと早く気づけなかった……」
声にならぬ呻きが、重く沈んだ部屋に響いた。
彼は、愛していた。
いや、今も愛している。
けれどそれを、どう伝えればいいのか分からなかったのだ。
「私は、どうしてあんなにも愚かだったのか……」
エリオット・グランツ公爵。
帝国の中でも有数の名家の当主であり、完璧な紳士と謳われたその男は、今やただの“愚かな元夫”だった。
翌朝、社交界はある噂でもちきりだった。
「グランツ公爵夫人――いえ、元夫人、再婚を考えているそうよ」
「男爵家の三男坊と、って話ね。公爵様はご存じなのかしら」
「さあ……でも、あの人、最近ずっと塞ぎ込んでるって聞いたわよ」
その噂は、瞬く間にエリオットの耳にも届いた。
「再婚……?」
報告を終えた執事が、彼の鬼のような表情に言葉を失う。
「それは、誰が言っていた?」
「い、いえ……はっきりとしたことは……」
「調べろ。男の名も、家も、交友も、すべてだ。――彼女を他の男に渡すつもりなど、あるものか」
言葉の最後に、愛があったのか、狂気があったのか。
それは誰にも分からなかった。
リディアは今、実家の離れ屋敷で療養中だった。
静かな庭に咲く白薔薇を見つめながら、手にしていた紅茶のカップを置く。
「…縁談、ですって?」
兄の口から語られた“縁談の申し出”に、リディアは一瞬目を見開いた。
「嫌よ、もうこりごり」
「……そうか。だが、そなたにとっても、よい話かもしれん」
「兄さま……?」
「父上もお前の将来を案じておられる。公爵との縁は切れたのだ、次の幸せを見つけるのも……」
「……私は」
その言葉を最後まで口にする前に、目の前の薔薇が風に散った。
「私は、もう……誰かと結婚する気力なんてないわ……」
兄はそれ以上なにも言わなかった。
ただ、そっと手を添え、彼女の肩を包み込むように撫でた。
その夜、リディアは夢を見た。
夢の中、あの広い屋敷の廊下を歩く自分。
開いた扉の向こう、暖炉の前で本を読むエリオットの姿。
そして、振り向いた彼が、まっすぐにこちらを見つめ――
「君がいないと、生きていけない」
――目が覚めた。
静かな部屋、隣には誰もいない。
(なにを、見ているの……私は)
リディアは胸を押さえ、そっとカーテンを開けた。
夜の空には星がひとつ、凛と輝いていた。
数日後。
「元夫人様、お手紙が届いております」
侍女が手渡してきた封筒は、見慣れた筆跡だった。
ただ、そこには差出人の名が記されていない。
中には、一枚の手紙。
『君のために、何ができるのか、私はいまもわからない。
でも、君が笑ってくれるなら、なんだってする。
君が他の誰かと歩むなら、祝福するべきだと頭では分かっている。
それでも、心が拒絶する。君を、手放したくない。
……愛している。
エリオット・グランツ』
彼女は手紙を握りしめ、そして――そっと、それを閉じた。
「……遅すぎるわ」
声は震えていた。
でも、その震えは怒りか、悲しみか、それとも別の感情か。
彼女自身にも、もうわからなかった。