外伝「夜明けの子守唄」
夜が深まった静かな屋敷に、ふいに赤ん坊の泣き声が響いた。
それはまだ小さな命の、確かな存在を知らせるような泣き声だった。
リディアはベッドの中でその音に目を覚ましたが、
身体を起こすよりも先に、ふとある気配に気づいた。
隣に寝ていたはずのエリオットが――いない。
扉の向こうから、低く優しい声が聞こえてきた。
「どうした、ん? 大丈夫、大丈夫だよ……」
その声に導かれるようにして、
リディアはそっと寝台を抜け出し、廊下へ出た。
足音を立てぬように、子ども部屋の扉へ近づく。
扉はわずかに開いていた。
そこから洩れる柔らかな灯りと、あたたかな気配。
その中に、ふたりの姿があった。
エリオットが、赤ん坊を抱いていた。
夜泣きに目を覚ました娘を、
彼は腕の中でゆっくりと揺らしている。
かつてはぎこちなかった抱き方も、今はとても自然で。
泣いていた赤ん坊は、もうほとんど静かになっていた。
「よしよし……怖くないよ。
パパもママも、ちゃんとそばにいるからな」
その声は、リディアが知っていた“公爵”の声ではなかった。
もっと低く、もっと優しく、もっと柔らかい――
“父親”の声だった。
リディアは、扉の陰にそっと身を寄せた。
その光景を、まるで夢の中のように見つめながら。
「……ママはね、君が生まれるずっと前から、ずっと君のことを待っていたんだよ。
そして、パパも……不器用だったけど、ちゃんとずっと、君のことを楽しみにしてたんだ」
エリオットの言葉に、リディアの喉がきゅっと詰まった。
思い返せば、ここに至るまでに、どれほどの夜を越えてきただろう。
言葉が届かず、想いがすれ違い、
信じたいのに信じられなかった日々。
それでも今、彼はそこにいて、
ふたりの“答え”を抱きしめてくれている。
涙が、頬を伝って落ちた。
音もなく、静かに。
リディアは袖でそっと拭い、
深く、長い呼吸をひとつだけした。
そして――扉をノックもせず、静かに押し開ける。
「リディア?」
エリオットが振り返った。
腕の中で眠りかけていた赤ん坊は、ほんの少しだけ身じろぎをした。
「……起こしちゃったか」
「ううん。あなたの声が、優しくて……起きちゃっただけよ」
微笑むリディアに、エリオットもまた微笑み返す。
彼女は、眠る娘の小さな手を指先でそっと撫でながら言った。
「この子の夜泣きも、そのうち終わっちゃうのよね。
こうして抱かれることも、どんどん減っていく」
「だから今は……大事にしようと思って」
エリオットの言葉に、リディアはうなずいた。
そして、ひとこと。
「ありがとう」
それは、過去にも、今にも、未来にも向けた感謝だった。
ふたりは目を合わせて、静かに寄り添った。
その夜は、もう寒くなかった。
すべてが終わって、すべてが始まった夜。
それは、ふたりがほんとうの意味で“親”になるための、ひとつの夜明けだった。