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第1話「別れの朝」

彼女は静かに筆を置いた。

目の前の紙には、自身の名と、そして『離婚届』の文字が並んでいる。


「これで、すべて終わるのね」


そう呟いた声は震えていた。

指先は冷たく、視界の端がじんわりと滲む。けれど、その涙はもう枯れかけている。泣くことにも、疲れ果てていた。


部屋の扉がゆっくりと開く。

重厚な木のきしみ音と共に、男の姿が現れた。


「……本当に、これでいいのか?」


低く、けれど震える声だった。

彼女の視線がゆるやかに上がり、淡い金の髪を持つその男――エリオット・グランツ公爵を見据える。


「ええ、いいの。もう十分頑張ったもの」


リディア・グランツ。かつてはその名で呼ばれていたが、もうすぐ“元”がつく。


「……君が、望むことなら」


「あなたは止めもしないものね?」


静かに。責めるでもなく、恨むでもなく。ただ、もう二度と心をすり減らしたくないと語るように。


「気づいていたのよ。あなたが、ほかの女性に……」


「違う。リディア、それは――」


「もういいの」


遮るように、リディアは立ち上がる。その動作さえも、ふらりと倒れそうなほど不安定で、エリオットは思わず一歩踏み出した。


「具合は……」


「いつもそうだったわ。私の体調より、あなたの仕事。あなたの名誉。あなたの、他人の評価」


言葉の刃は、柔らかく、けれど確実に彼の胸を刺した。


「私は、妻としても、女としても……誰かに選ばれることのない人間だったのよ」


「ちが――!」


「“あなた”に、選ばれなかったの」


エリオットの口が、何かを言おうとして開かれたまま止まる。

けれど、彼女はもう背を向けていた。


「お疲れ様でした、奥様……いえ、リディア様」


屋敷を去る日、古株の使用人たちが彼女を見送っていた。

その中には、幼少から彼女を知る侍女の姿もあった。泣きながら、リディアの手を握りしめる。


「奥様のこと、みんな、わかっていました……公爵様も、どうしてもっと、ちゃんと……」


「ありがとう。でも、もういいの」


リディアは微笑んだ。

弱く、儚く、そして美しく。


彼女の体調は確かに芳しくなかった。

だからこそ、心の疲れは、より深く彼女を蝕んだ。


馬車に乗り込んだ瞬間、世界がすべて静かになった気がした。


エリオットは、その夜、書斎で一人きり、暖炉の前に座っていた。


手元には、離婚届の控え。そして、一通の未送信の手紙。


「……なぜ、俺は……」


彼の指は震えていた。

机の中には、これまで書いては渡せなかった手紙の束があった。

“愛している”という一言が、どうしても言えなかった。

どうやって言えば伝わるのか、彼にはわからなかったのだ。


「女というものは、どうすれば満たされる?」


昔、ふと漏らした疑問に、あの女が近づいてきた。


「教えてさしあげましょうか、エリオット様」


彼はただ、妻に喜んでほしかった。

だから、女性の助言を受けた――それが、愚かだったと知るのは、ずっと後のことだった。


一方、リディアは実家の離れにて、静養を始めていた。


日差しの柔らかな庭園、兄の差し入れてくれた書物、侍女の優しい介助。


けれど、夜になると、ふと彼の声が耳に残った。


(本当に、これでいいのか?)


――“私の気持ちなんて全く知ろうとしてなかったじゃない”


眠れぬ夜、胸に手を当てて彼女は思う。


(彼は、私を愛してくれていたの? それとも……)


わからない。けれど、もう振り返るつもりはなかった。

彼を――彼との日々を、忘れるために実家へ戻ってきたのだ。


それから数日後。


社交界で、ある噂が広がる。


「公爵夫人が、新しい縁談を受けているらしいわよ」


「なんですって? 男爵家の三男と?」


そして、その噂はすぐ、エリオットの耳にも届く。


「……嘘だろ」


書類の束を床に落とし、彼はただ震えた。

離婚してから初めて、“本当の喪失”に触れた。


「誰にも渡さない……君は、俺の――」


執着と後悔の底に沈みながら、彼の行動が、狂い始める。



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