第15話「再婚の申し込み」
翌朝、リディアが目を覚ましたとき、
心が――驚くほど、軽かった。
昨夜の静かな時間。
肩に触れた温もり、重ならなかったはずの想い。
そのすべてが、胸の中にやわらかく残っていた。
「こんな朝も、あったのね……」
そう呟いて、ベッドのカーテンを少し開ける。
外は晴れていた。柔らかな春の陽が差し込む、穏やかな朝だった。
しばらくして、侍女がそっとドアをノックした。
「公爵様より、『庭でお待ちしております』とのことです」
リディアは驚きつつも、どこか嬉しさが湧いてくるのを感じた。
身支度を整え、軽やかな足取りで庭へと向かう。
昔は、ここを歩くたびに緊張していた。
でも今は――まるで“戻ってきた”ような、そんな気がしていた。
庭の奥、一本の大きな木の下にエリオットがいた。
春の花々が咲き乱れる中、静かに待つその姿は、
以前の彼とはまったく違って見えた。
リディアは近づき、微笑んだ。
「おはようございます、エリオット」
「おはよう、リディア」
その場所には、小さな丸テーブルとふたつの椅子。
そして、テーブルの上には一輪の白いバラがそっと置かれていた。
リディアが椅子に腰を下ろすと、エリオットは少しだけ深呼吸をした。
「今日は……きちんと、君に伝えたいことがあるんだ、母の話なんだけど。聞いてもらえるだろうか」
「……はい」
エリオットが母の名を口にしたのは、この時が初めてだった。
ふたりの間には、静寂が流れていた。
エリオットはしばらく宙を見つめていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……母は、いつも完璧だった」
その声は静かで感情の起伏は少なかったけれど、
奥底に沈んだ何かが、確かににじんでいた。
「周囲には慈愛深い母に見えていたと思う。でも、僕にとっては……ただ、遠い人だった」
エリオットはゆっくりと手を膝に組み、背を伸ばした。
「褒められた記憶が、ないんだ。幼い頃から私がどれだけ努力しても、それは“出来て当たり前”でしかなかった」
「礼儀作法も、学問も、乗馬も。少しでも不出来だと、“公爵家の恥”と突き放された。
叱責や言葉よりも“無視”の方が多かった。
だから……幼い頃の僕にとって、母に話しかけることがとても困難だった」
リディアは思わず、小さく息を呑んだ。
彼がそんなふうに過ごしてきたことを、想像できなかった。
「でも父はほとんど屋敷にいなかったから、母が“世界のすべて”だったんだ
認められたくて、褒められたくて、なんでもした。でも、彼女の目は……いつも冷めていた」
炎の明かりが揺れるたびに、彼の表情に影が差す。
けれど、その瞳はどこか、少年のように脆かった。
「彼女にとっての“愛”は、成果と対価のようなものだったんだと思う。
誰かを抱きしめる理由なんで存在しなかった」
「僕が笑っても、泣いても、甘えても……何も返ってこなかった。
だから、愛って何なのか、よく分からないまま大人になったんだ」
しばらくの沈黙が、ふたりのあいだを満たす。
リディアはそっと彼の手に、自分の手を重ねた。
「でも……あなたは、違う、今になるまで、私も気づけなかったけど」
エリオットはわずかに瞳を揺らし、彼女を見た。
「君と暮らし始めて、毎日が怖かった。
どうすれば喜ぶのか、どうすれば心を傷つけずにいられるのか、わからなくて
君は僕を見つめ続けてくれたのに。
僕が気が利かなくても、忙しさにかまけても、諦めずにそばにいてくれた……なのに、僕は君の涙にも気づけなかった」
リディアは小さく首を振った。
「私も、あなたの不器用さをちゃんと見ようとしなかった。
ただ……どこかに行ってしまいそうで、怖くて。
私も、たくさん間違えていたの」
エリオットはそっと彼女の指を握り直す。
「それでも……もう一度、時間を、チャンスを与えてくれた。
君を愛するということを、一からになってしまうと思うけど」
リディアの指先が震えたまま、そっと彼の手に触れる。
ふたりのあいだには、たしかに過去があった。
けれど今、そこには赦しと希望の灯があった。
ポケットから、小さな箱が取り出される。
それが何か、リディアはすぐに気づいた。
「リディア。もう一度――家族になってくれないだろうか」
その言葉は、静かで、けれど確かに彼のすべてだった。
「今度こそ、君をひとりにしない。もう二度と繰り返さない
。君の言葉を、想いを、すべて大切にする。
だから……もう一度、僕の隣にいてくれないか?」
箱が開かれる。
中にあったのは、あの日の温室で見せた指輪――
けれど今度は、それが**“求婚の証”として**差し出されていた。
リディアは、しばらく黙って箱を見つめた。
そして、彼の目をまっすぐに見返した。
「……約束してくれる?
寂しいときは、ちゃんと気づいてくれるって」
「ずっと君のそばにいる」
「ふふ、ずっとじゃなくてもいいわよ」
彼のその言葉に、リディアはそっと微笑んだ。
その微笑みは、かつての彼女ではなく、
今の彼女が、選び取った“未来への一歩”だった。
「じゃあ――もう一度。よろしくね、エリオット」
その瞬間、春風がふたりの間を通り抜け、
木漏れ日が彼女の頬にやさしく降りそそいだ。
そして、白いバラの花が、まるで祝福するように静かに揺れていた。